オクタウィア
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オクタウィア(Octavia) は、古代ローマの女性の名前。オクタウィウスの娘の名前であるが歴史上では以下の二人がよく知られている。またセネカ作といわれる悲劇『オクタウィア』の題名にもなっている。
[編集] アウグストゥスの姉
オクタウィア(Octavia, 紀元前69年 - 紀元前11年)は、初代ローマ皇帝アウグストゥスの姉。
オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)と同じく、貴族階級に属していた父ガイウス・オクタウィウスとガイウス・ユリウス・カエサルの姪アティアの娘として生まれた。
最初、紀元前50年の執政官、ガイウス・クラウディウス・マルケッルス・ミノルの妻となりマルケッルスと二人の娘大マルケッラ、小マルケッラの3人の子供をもうけた。 その後オクタウィアヌスがマルクス・アントニウスと第二次三頭政治を固めるために紀元前40年アントニウスに嫁ぎ大アントニアと小アントニアの2人の娘をもうけた。
アントニウスがオクタウィアヌスとの協定の結果、ローマ世界の東側を支配領域としてエジプトに赴くとクレオパトラに出会い、オクタウィアとの関係は急速に疎遠となっていった。それでもオクタウィアはローマにあって夫の留守を守ったが、それを見たローマ市民たちの間では貞淑な妻を顧みず異国の女のもとに留まり続けるアントニウスへの評価は次第に低下していった。最終的にはアントニウスとは離婚となるが、こうした夫に従順な態度はアントニウスが自死した後も続き、彼とクレオパトラとの間の娘達を引き取り自らの手で養育した。また、オクタウィアは貞淑なだけでなく、美しい女性でもあったようだ。現存する彼女の彫像からも、その美しさが偲ばれる。
- 詳細は小オクタウィアを参照
[編集] クラウディウスの娘
オクタウィア(Claudia Octavia, 紀元40年 - 紀元62年)は、ローマ皇帝クラウディウスと3番目の妻メッサリナの娘でブリタンニクスの姉。ネロの義理の妹であり最初の妻にあたる。
当初はクラウディウスによって小ユリアの孫にあたるルキウス・ユニウス・シラヌスと婚約させられていたが、メッサリナの死後クラウディウスが小アグリッピナとの関係を深めるとこの婚約は破棄された。自らの子ネロを帝位に就けるため、ネロとオクタウィアの結婚を小アグリッピナが望んだためといわれている。49年にクラウディウスと小アグリッピナが結婚すると、同じ年にオクタウィアもネロと婚約した。 その後50年2月25日にネロがクラウディウスと養子縁組を行い、小アグリッピナの連れ子から皇帝の養子とその立場を変える。
53年に12歳でネロと正式に結婚。54年に父クラウディウスが死ぬと夫ネロが皇帝となる。翌55年には弟ブリタンニクスがネロにより晩餐の最中に暗殺されている。
ネロは女奴隷であるアクテを実質上側室とするなど性的に放縦な傾向を示していたが、オクタウィアは貞淑な妻として夫に尽くしていたといわれる。その後ネロが友人オトの妻であったポッパエア・サビナに心を惹かれるようになると58年にオトはルシタニア総督を命じられローマから引き離された。ネロはポッパエアとの結婚を望んだが、ネロの母小アグリッピナは野心の強い女との結婚には反対し、高貴な血を引くオクタウィアとの離婚を許さなかった。しかし59年に小アグリッピナがネロによって暗殺されると、62年にオクタウィアは不妊を理由に離婚され、さらに内乱を画策したとして姦通罪でティレニア海の孤島パンダテリア島(現在のヴェントテーネ島)に幽閉。最期は自殺を強要され死んだ。オクタウィアはローマ市民から愛されたが夫からはあまり愛されなかったといわれている。
彼女を題材にセネカ作といわれる悲劇『オクタウィア』が作られた。