小峰義親
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小峰 義親(こみね よしちか、天文10年(1541年) - 寛永3年(1626年)2月16日)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、白河結城氏13代当主。父は諸説があり不明。結城顕頼の庶子と言われているが、結城義綱、または結城晴綱の子であるという異説もある。上野介。左衛門佐。隆綱。不説斎。
はじめは隆綱と名乗っていたと言われる。永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいたが、1573年に宗家の結城晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城氏を取り仕切った。しかし、1575年に家老の和知美濃守と図って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となる(天正の変)。義親の謀反の原因は、自身の野望によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたからともいわれているが、真意の程は不明。また、最近は義親は晴綱の嫡男(または弟で養子になったとも)であり小峰氏は継いでおらず、家督簒奪ではないという説も出てきている。
この頃の白河結城氏は佐竹氏の侵攻に遭って衰退しており、義親の時代には遂にその臣下として屈せざるを得なかった。1579年に佐竹義重の次男義広を養子に迎え、義親は入道し不説斎と号し佐竹氏に恭順の意を示して義広の後見人となったが、1587年に義広が蘆名氏を継いだため、再び義親が白河結城氏の当主となった(義親は初め、娘婿の大関晴増を養子に迎えていたが、晴増はこの年に実家である大関氏に戻ってその家督を継いだ)。
その後は佐竹氏に従って伊達氏としばしば争ったが、1589年に蘆名氏が滅ぼされると佐竹氏に見切りをつけ伊達氏に帰順した。そして、1590年の小田原征伐において、伊達政宗に託して豊臣秀吉に名馬を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。(奥州仕置)
その後義親は所領回復を願って会津の蒲生氏郷を頼り、願いはかなわず諸国を放浪していたが、慶長6年(1601年)、義親は伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち伊達一門に列せられ、仙台藩士となった。義親は嫡子がいなかったため、弟義名の子、義綱を養子にした。晩年は政宗に厚遇されたという。
1626年2月16日に86歳で没した。法名は月翁道雲照院。
[編集] 牛切丸
那須野ヶ原で鷹狩を開いていたとき、突然一頭の牛が義親の前に出てきて一声鳴いたところ、義親の腕に居た鷹が驚いて逃げ去ってしまい、義親は怒って差していた太刀でその牛を一刀両断した。以後この太刀を「牛切丸」と号し、後に那須神社(栃木県大田原市)に奉納された。鎌倉時代中期の備前国一文字派の作と推定され、県有形文化財に指定されている。
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