小河原政徳
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小河原 政徳(おがわら まさのり、文化14年(1817年) - 慶応4年4月3日(1868年4月25日))は、幕末の前橋藩家老。通称・左宮(さみや)。字を子辰。
幕末に外国船が来航するようになると、上総国内に飛び領を有していた前橋藩にも江戸湾防衛の義務が課され、富津に置かれた台場の守備が命じられた。
小河原が富津の守備兵の指揮を取っていた折に、江戸を脱出した旧幕府軍3千が木更津に結集して富津にいた前橋藩兵を攻撃する構えを見せた。小河原は旧幕府軍の撤退を求めるが、逆に富津台場を武器ごと明け渡すように要求した。富津には少数の兵しかおらず、やむを得ず小河原は奉行の白井宣左衛門に兵士を託して無血開城をしてその責任を負って自害して果てた。
ところが、これが「前橋藩が旧幕府軍と内通していた」という中傷となって新政府軍に伝わり前橋藩は新政府から厳しい問責を受ける。これを見た白井は全責任を負うとして自害したため、前橋藩の行為については不問とされた。
前橋の人々は、小河原と白井は藩と藩士達のために犠牲になった人物であるとして、後々まで敬意を払ったという。