富津岬
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富津岬(ふっつみさき)は、千葉県富津市の小糸川河口付近から東京湾に面して南西方向に約5kmにわたって突き出した岬。
小糸川河口から岬の先端まで続く富津洲(ふっつす)と呼ばれる細長い砂洲とそこから磯根崎まで続く富津平野(ふっつへいや)と呼ばれる三角形の沖積平野から構成されるが、前者のみをもって「富津岬」と呼称する場合もある。
約6km離れた対岸の三浦半島観音崎とともに東京湾内湾と浦賀水道を区切る境界となっている。岬の北側では内湾の静かな波打ち際に干潟(富津干潟(ふっつひがた))を形成し、南側では外洋の荒波に対する防波堤の役割を果たしている。
富津の北側を流れる小糸川の土砂が、内湾を時計回りする潮汐流の働きで砂洲を形成し、そこに外洋から磯根崎の付近に流れ込んだ土砂が重なる形で三角州を形成していったのが富津平野の原型であると考えられている。その後の隆起などによって富津平野は段丘化し、そこへ更なる土砂の蓄積が加わる事によって富津平野の先端に砂洲が形成された結果、尖角岬を持つ富津洲が形成されたと考えられている。
寛政の改革で知られる白河藩主松平定信は、外国船の来航に備えて富津岬に台場を設置する必要性を唱えた。だが、江戸幕府がこれを採用したのは定信失脚後の文化7年(1810年)の事であり、しかも最初の駐屯は主唱者とされた白河藩に命じられる事となった。続いて文政4年(1821年)には駐屯藩のための陣屋が設置された。明治15年(1882年)以後、富津洲は海軍の軍用地となり、沖合に第一海堡と呼ばれる人工島が築かれたが、土砂の堆積と関東大震災による隆起によって戦後の一時期まで富津洲と地続きになっていた事がある。戦後は千葉県に払い下げられて千葉県立富津公園となり、昭和28年(1953年)に昭和天皇・香淳皇后を招いた全国植樹祭の会場となった。現在岬の先端近くには展望台などが設置されている。