小田俊与
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小田俊与(1907年1月20日 - )は、日本の政治運動家。出身は沖縄県。「世界タイムス」や「全東京新聞」を発刊したり、原水爆禁止運動にも取り組んでいた。
衆参両院選挙や、全国の主要都市の首長選挙の他、当時は供託金制度が無かった昭和30年代の全国の町村長選挙に、速達郵便で立候補手続きをし出馬。
町村選挙は被選挙権があっても、選挙権は当該町村に居住していなければ無い訳であって、一票も票が入らないこともあった。
これらの行為の他、当時は明確な規定が無かった為、無効とする事が出来ない掛け持ち立候補も行った為、累計立候補回数は500回を超え、「泡沫候補」の罵声を始終浴び続けた。この500回以上という数字は、今の選挙制度をもっては破る事が出来ない記録であろう。
晩年は、総会屋的行為もし、航空会社を執拗に糾弾するタブロイド冊子を発行。事務所に銃弾を打ち込まれる騒ぎにもなった。
兄はアナーキスト活動家から戦前に社会大衆党の衆議院議員を務めた小田榮(小田天界)。戦後は東京1区(当時)から一貫して総選挙に出馬し、泡沫候補として知られる存在となった。
[編集] 著書
- 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
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