東條英機
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生年月日 | 1884年7月30日 (戸籍上は12月30日) |
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出生地 | 出生地:東京市麹町区 本籍地:岩手県 |
出身校 | 陸軍士官学校 |
学位・資格 | 陸軍大将 従二位 勲一等旭日大綬章 功二級金鵄勲章 |
前職 | 陸軍大臣 |
世襲の有無 | 無し(子孫参照) |
在任期間 | 1941年10月18日 - 1944年7月18日 |
選挙区 | |
当選回数 | |
所属(推薦)党派 | |
没年月日 | 1948年12月23日 |
東條 英機(とうじょう ひでき、新字体で東条 英機、1884年7月30日(戸籍上は12月30日) — 1948年12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣(1941年10月18日 - 1944年7月18日)。位階勲等は陸軍大将従二位勲一等功二級 。統制派の中心人物。首相在任中に複数の大臣を兼任し、また、太平洋戦争を始めた。東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。
目次 |
[編集] 生い立ちと経歴
東條英機は1884年(明治17)7月30日 東京市麹町区に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。(誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている。)
東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍中将であったが、長州閥が幅を利かせていた当時の陸軍での立場は弱く、陸大を首席で卒業した俊才であったが、陸軍中将で予備役となった[1]。近年では、山田風太郎の小説で有名である(当時の陸軍は山県有朋を中心とする明治維新の立役者達が、戊辰戦争で最後まで抵抗を続けた東北地方の諸藩に対して、様々な差別を行っていたという)。
英機は番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校を経て、1897年、東京府立城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)に入学する。1899年、東京陸軍幼年学校入学(3期生)。1902年、陸軍中央幼年学校入学(17期生)。1904年陸軍士官学校入学(17期生)。
[編集] 陸軍入隊
東條 英機 | |
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1884年7月30日 - 1948年12月23日 | |
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渾名 | 東條幕府 東條一等兵 (石原莞爾) |
生誕 | 出生地:東京市 本籍地:岩手県 |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905年 - 1945年 |
階級 | 陸軍大将 |
指揮 | 関東憲兵隊司令官 関東軍参謀長 陸軍次官 |
賞罰 | 勲一等旭日大綬章 死刑 (東京裁判) |
除隊後 | 内閣総理大臣 |
1905年に陸軍士官学校を卒業(クラス50人中42位)、陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40)には陸軍歩兵中尉に昇進する。
1909年、伊藤かつ子と結婚。1911年に長男の英隆(東條由布子の父)が誕生。1912年(大正元)に陸軍大学校入学(27期生)。1914年には二男の輝雄(元三菱自動車工業社長)誕生。1915年に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年には長女が誕生、翌1919年、駐在武官としてスイスに赴任。1920年に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年にはドイツに駐在。
1922年には陸軍大学校の教官に就任、その翌年に二女が誕生している。1924年には陸軍歩兵中佐に昇任。1925年に三男が誕生。1926年には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年、大佐に昇進し整備局動員課長に就任。翌1929年には三女が誕生。1931年には参謀本部編制課長に就任し、翌年四女が誕生している。
1933年に陸軍少将に昇任、陸軍省軍事調査部長に就く。1935年には関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1936年に陸軍中将に昇進、翌1937年関東軍参謀長に就任する。1938年には板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就く。1940年から第2次、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた。
1937年、関東軍参謀長であった東條は、内蒙古の徳王を指導し、スイエン省(内蒙古自治区中南部)に侵入を支援した。(スイエン事件)中国側は、スイエン省主席のフ作義の指揮で1週間で撃退された。これ以降、中国側は、東條英機を、日本の満州権益拡大を主導する人物として評価するようになった。
[編集] 首相就任
日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、東條は強硬な主戦論を唱え、第3次近衛内閣を退陣に追い込んだ。
誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近木戸幸一らは、日米衝突を回避しようとする昭和天皇の意向を踏まえ、明治維新時に政府軍に蹂躙された東北出身ゆえか「忠狂」と呼ばれるほど天皇を敬愛していた東條英機本人をあえて首相にすえることによって、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができると考えた。
天皇は木戸の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。木戸は「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりもぬきんでているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。・・・優諚を実行する内閣であらねばならなかった。」と述べている。[2]
日本政府が最後の望みをかけておこなっていた日米交渉の間、陸軍の強硬派を抑えることができる唯一の人物であると目されたため、1941年に第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任し、且つ、内規を変えてまで陸軍大将に昇進する。この年『戦陣訓』を作成し布達している。
[編集] 日米開戦
1941年12月8日、日本はアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。 東條は1942年に外務大臣、1943年には文部大臣・商工大臣・軍需大臣を兼任。1944年、国務と統帥の一致・強化を唱え、杉山元参謀総長を辞任させてまで参謀総長に就任するがサイパン陥落にともない岸信介に造反される。東條の内意を受けた四方憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任をせまったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが昭和天皇は「そうか」と言うのみであった。万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となる。東條は、この政変を重臣の陰謀であるとの声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。東條の腹心の赤松らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた[3]。東條は次の内閣においても陸相として残ろうと画策するも梅津参謀総長の反対でこれは実現しなかった[4]。
現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは東條が最初である。1941年12月23日に封切られた日本ニュース第81号「鉄石一丸の戦時議会」がそれで、東條はヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事(東京)裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことがわかる。
[編集] 敗戦と自殺未遂
1945年9月11日、終戦に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗している。
頭を撃たなかったのもさることながら、東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、娘婿で近衛第一師団の古賀少佐の遺品の銃を使用したが、使い慣れていなかったため手元が狂ってしまったという説がある。銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に東條邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については当時の朝日、読売、毎日の新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され批判の対象となった。[5]
使用された拳銃については諸説があり、結論は出ていない。東條が自殺に使用したものとしてアメリカ合衆国のバージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館(MacArthur Memorial Museum)に展示されている拳銃はコルト社製の32口径であるが、当時は占領の混乱の最中であったため、それが本物であるという確実な証拠も存在しないというのが実際のところである。
- ブローニング(22口径)説
- 東條の秘書官だった赤松貞雄の手記には東條がブローニング社製の小型拳銃を所持していたことが語られており、胸を撃ったにもかかわらず救命されたという結果と、東條が普段護身用に携帯していたのがこの銃であったことから推測された説と考えられる。当時の読売新聞や朝日新聞には「大将が自殺に使用した拳銃は口径3.2ミリの玩具同然」との批判記事が並び、マスコミを通じて広く一般の国民に流布された。自決に用いるには確実性の低い銃であることから狂言自殺説の根拠ともなっており、東條に悪意を持つ人々が多かったという背景もあって現在も根強く信じられている。佐々淳行は「22口径を使って胸を撃つなんて銃について知っている人間にとっては笑い話」であると述べており、最近では東京都知事の石原慎太郎も同様の発言を行っている。
- コルト(32口径)説
- 東條の娘婿で近衛第一師団の古賀少佐が、8月15日の自決に際して使用した銃であり、米軍の調査担当者もこの説を採用している。しかし古賀少佐の遺品の拳銃を使用したことは秘書官であった赤松貞雄や花山信勝など多くの関係者の記録に東條自身の発言として伝えられているが、不思議なことに銃の種類については「制式大型」「陸軍の制式拳銃」など米国製のコルトであることを否定するような主張を繰り返しており、また米軍による取り調べの供述においては「陸軍省から貰った」と明らかに上記とは矛盾する証言を残している。
- 南部 (8mm) 説
- 古賀少佐の遺品である陸軍制式(拳銃)大型を使用したという説。この拳銃は発射時に独特のショックがあるため、手元が狂ってしまったとされる。しかしながら憲兵出身で拳銃の扱いには慣れていたはずの東條が軍の制式銃の特徴を知らぬはずがなく、この説明はいささか説得力に乏しい。この説は東條が語った古賀少佐の遺品であるという話と、陸軍の制式大型という内容の整合性を取るために導き出された推論であるが、東條を主人公とした映画「プライド 運命の瞬間」では彼の発言を尊重して日本製の南部十四年式が使用されている。
銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、米軍による手術と手厚い看護を受けて奇跡的に九死に一生を得、A級戦犯として連合国軍最高司令官総司令部により逮捕される。
A級戦犯逮捕による世論の動向を調査した京都府警察部特高課の報告(「東条元首相ノ自決並戦争犯罪人氏名発表ニ対スル反響」)よると、
「1, 東条元首相ノ自殺ヲ図リタルコトニ付テハ、『死ニ遅レタ現在ニ於テハ戦争ノ最高責任者トシテ男ラシク裁判ニカヽリ大東亜戦争ヲ開始セザルヲ得ナカツタ理由ヲ堂々ト闡明シタル上、其責任ヲ負フベキデアツタ』トナシ、又、米兵ニ連行ヲ求メラレテ初メテ自殺ヲ図リタルハ生ヲ盗ミオリタルモノト見ルノ外ナク、然モ死ニ切レナカツタ事等詢ニ醜態ナリトシ同情的言動認メラレズ」
と多くの世論が東條に冷たい視線を送るだけであった。
山田風太郎も「卑怯といわれようが、奸臣といわれようが国を誤まったといわれようが、文字通り自分を乱臣賊子として国家と国民を救う意志であったならそれでよい。それならしかしなぜ自殺しようとしたのか。死に損なったのち、なぜ敵将に自分の刀など贈ったのか。『生きて虜囚の辱しめを受けることなかれ』と戦陣訓を出したのは誰であったか。今、彼らはただ黙して死ねばいいのだ。」 「なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくいさぎよくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか。逮捕状が出ることは明々白々なのに、今までみれんげに生きていて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損っている。日本人は苦い笑いを浮かべずにはいられない」と手厳しく批判している。
当時の日本人の多くが同じ感想を持った。新聞に連日掲載された他の政府高官の自決の記事の最後には「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が付記されるようになりさらに国民の不興を買っていった。
なお、これには東條は自殺未遂ではなく米軍MPに撃たれたという説がある。当時の陸軍人事局長額田担は「十一日午後、何の連絡もなくMP若干名が東條邸に来たのを、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更ため奥の部屋へ行こうとした。すると、逃げたと勘違いしたらしいMPは窓から飛び込み、イキナリ拳銃を発射して大将は倒れた。MPの指揮官は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運びこんだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言している[6]。
[編集] 東京裁判判決と処刑
[編集] 判決と仏教への帰依
東條は1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、享年64。辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」。晩年は浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や巣鴨拘置所の教誨師、花山信勝の影響で仏教に帰依した。 処刑の前に読んだ歌にその信仰告白をしている。
- さらばなり 有為の奥山けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき
- 明日よりは たれにはばかるところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む
- 日も月も 蛍の光さながらに 行く手に彌陀の光かがやく
[編集] 遺骨と神道での祭祀
絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、当夜のうちに横浜市西区久保町の久保山火葬場に移送し火葬された。遺骨は粉砕され遺灰と共に航空機によって太平洋に投棄された。
小磯国昭の弁護士を務めた三文字正平と久保山火葬場の近隣にある興禅寺の住職の市川伊雄は遺骨の奪還を計画した。三文字らは火葬場職員の手引きで忍び込み、残灰置場に捨てられた7人分の遺灰と遺骨の小さな欠片を回収したという。回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市の興亜観音に運ばれ隠された。1958年には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年8月には愛知県幡豆郡幡豆町の三ヶ根山の山頂に改葬された。同地には現在、殉国七士廟が造営され遺骨が祀られている。
東條英機は靖国神社への合祀を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属のみに限定し、戦地以外での死者は合祀不可とする命令を出していた[7]が、1966年、旧厚生省(現厚生労働省)が刑死するなどした東京裁判のA級戦犯の14名の「祭神名票」を靖国神社側に送り、靖国神社は1978年にこれらを合祀した。なお、靖国神社に遺骨は納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国家のため戦争・事変で命を落とした戦没者およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。よってあるのは「霊璽簿」(れいじぼ)と称される死者の霊魂の宿る名簿と、東条英機等を顕彰する施設のみである。
[編集] 評価
東條に対しては、太平洋戦争開戦時の総理大臣でもあり、昭和初期の歴史を考える上でそれなりの批判は避けて通れないことも事実であろう。現在一般的な東條に対しての評価として以下の点が挙げられる。
日本を戦争に引きずり込んだ張本人のように言われることもあり、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治をおこなったために(自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行ったりと)、宰相としての評価は一般に低い(東條の政治手法に反対していた人々は、「東條幕府」と呼んで非難した)。[8]
官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、東條と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾は、関東軍在勤当時、上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際、「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えたという。しかし、東条・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあった。[9]
東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としては、その官僚的な硬直した発想、視野のせまさ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者へ弾圧、憲兵を多用した警察国家的な政治手法、などに起因するものが多い。「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感、という面が強いと言えるだろう。しかし、上述されている内容は東条のプライドの高さゆえと言う事も出来る。
例えば、東條の嫌悪感を感じさせる戦中の有名なゴシップは以下のようなものがある。
首相・陸相に加え軍需大臣と参謀総長を兼ねた頃、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し、「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話(「佐藤賢了回想録」より)。ただし、東條に限らず、特に独ソ不可侵条約締結の頃には「あの伍長上がりに振り回され・・・」と、ヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている)がある。また、区役所にて直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと首相みずからチェックしたという話もあるが、このゴシップについて本人は、その真の目的は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」であったと後日、語っている。(出典:深田祐介『黎明の世紀』文藝春秋)。どちらにしても一国の指導者が自ら行う行為ではありえず、全てを自分が把握、指揮しないと気が済まないという東條の性格が伺われる。1943年、西尾寿造大将は関西方面を視察していたとき、記者から何か質問されたところ、「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる奴がおるだろう。そいつに聞け」と答えた。塵箱あさりとはもちろん東條首相のことである。東條はこの談話を聞いてかんかんに怒り、その私怨から西尾を予備役とした。[10]。
東條の陸軍大臣と参謀総長の兼任(プラス嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、軍政と軍令の分離を前提とした天皇の統帥権を侵す疑いが濃厚であったが、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。ただし敗戦後も本人が責任を取らず自決しなかったのは上述のとおりである。
また、仕事に私情を持ち込んだばかりか、反対意見には耳を塞いだ。個人的に嫌いな人物や敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條酷愛の方法で、毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい竹槍事件では1944年2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と自分に批判的な記事を書いた新名丈夫記者を37歳という高齢で二等兵召集し、硫黄島へ送ろうとした。これに対して、新名記者が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった経過から海軍が抗議した。新名記者は大正年間に徴兵検査をうけたのであるが、まだ当時は大正の老兵は1人も召集されてはいなかった。そこで海軍は「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍をねじこんだ。陸軍は、あわてて大正の兵隊を250人丸亀連隊に召集してつじつまをあわせた。新名記者自身はかつて陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内でも特別の待遇を受け三箇月で召集解除になったが、上の老兵250人は硫黄島で戦死することになる。陸軍は新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名の命を救った。
陸相時代に支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條陸相の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だった。また戦争を早くから志向していたという説もある。事実、陸軍次官時代の1938年に軍人会館での在郷軍人会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に米英とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方は対してはソ連を、南方に対しては米英との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し当時「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と報道された。
また、逓信省工務局長松前重義は東條反対派の東久邇宮に接近したために、42歳にして召集され、南方で電柱かつぎに使役された。高松宮宣仁親王は日記のなかで次のように述べている。『松前運通省工務局長が応召したとの話で尋ねたら、やはり熊本の西部22部隊に二等兵として召集された由、実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である』。さらに松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省は取り消しを要請したが富永陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は無事についたが召集対象外の松前を召集するのを目立たぬように同時に召集された老兵数百人がバシー海峡に沈んだ[11]。
陸軍内の東條嫌いで有名だった前田利為は、東條によって南方の激戦地に転任させられ、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている。
尾崎行雄を天皇への不敬罪として逮捕させている。これは1942年の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、作家の山本七平は著書「昭和天皇の研究」で、これを1942年4月に尾崎が発表した「東條首相に与えた質問状」に対しての報復であるとしている。
ガダルカナル島の戦いで輸送船の増船を求める参謀本部の要求を拒否し、直談判にきた田中新一作戦部長が「馬鹿野郎」と暴言を吐くと、翌日田中は南方へ転勤になった。東條の不興をかって前線送りになった将校は塚本少佐ら多々おり、サイパン送りにした将校には「サイパンの防衛には、この東條が太鼓判を押す」と言って送り出し戦死させた。
特高警察と東京憲兵隊を重用し、一般人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題がある。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同士会(東方会が改称)ほか三団体の幹部百数十名とともに検挙した。(この検挙の理由をめぐっては、当時中野が朝日新聞に執筆した「戦時宰相論」が原因との説もある)中野は釈放後、憲兵隊の監視下で自決に追い込まれる。全国憲友会編「日本憲兵正史」では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに自決を迫られたものと推定している。また中野を取り調べ容疑不十分で釈放した四十三歳の中村登音担当検事には、その報復として召集令状が届いた。
また、行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したことは、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾・抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。首相であった東條のもとに軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれるが、統帥権問題の歴史的経緯を見る場合、あまりにもご都合主義、行き過ぎの感を否めない。
東條の陸士1期後輩の独立混成第1旅団長酒井鎬次は戦車用兵でしばしば東條と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした。東條が力をつけると酒井は閑職に左遷され、昭和15年には予備役に編入された。東條が陸相時代に選んだ二人の陸軍次官、木村兵太郎(在任:1941-1943)も富永恭次(在任1943-1944)も東條失脚後それぞれビルマ、フィリピンの最前線に移動となり両者とも敵前逃亡と言われても仕方の無い行動をとって戦線を放棄し勝手に撤退する行為におよんだ。
東條は、「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、1942年9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について、以下のように答弁している。「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」。
歴史学者の秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル出兵、陽高の集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している(このような当時の指導者を裁判にかけるという話は東久邇宮を中心にあったそうだが昭和天皇や木戸幸一は「人民裁判になる」として反対していた)。
ちなみに東條の腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄やインパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷したが、わずか半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次がいる。富永はフィリピンで特攻指令をだし、みずからも特攻すると訓示しながらも、「胃潰瘍」の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡した。「東條の腰巾着」と批判された二人の陸軍次官、木村兵太郎、富永恭次とも敵前逃亡としかいえない行為を行っていることは東條人事の限界を示している。
作家の司馬遼太郎は「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)というエッセイのなかで、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
日米開戦日の深夜、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。そして東京裁判時には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの評判の悪い部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。また学習研究社から発売している「実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌」の「東條英機」の項目の中でも中野正剛の事件について「憲兵の情報を鵜呑みにして過剰反応したのではないか」という同様の推察がある。だが、天皇の信任が去って以降の東條は、誠忠無二とは逆の方向に変質していく。鈴木内閣が誕生した1945年4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑元帥を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言し岡田啓介から「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめられている。さらに終戦工作に対しても妨害工作を行い「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた[12]。
東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で、日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど、開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで、陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか、後任の小磯総理が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。また東條自身、政治を「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もあるが、田中隆吉の手記によれば第3次近衛内閣が総辞職する3日前に加藤伯治郎憲兵司令部総務部長が木戸内大臣を尋ね「東條を首相とせねば陸軍を統制することを得ない」と脅して木戸に東條を推薦させたとしている。
日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、強硬な主戦論を唱え、第3次近衞内閣を退陣に追い込んだといわれている。1941年に開かれた初の陸海軍合同軍事参議官会議の議事録に目を通した小堀桂一郎は、「和平の手段がなく戦争に突入するしか道がないといっているだけであって、最も責任の重いのは一次から三次と内閣を組閣しながらも確固とした政治姿勢を持たずに外交に失敗し、打つ手が無くなったので責任ある地位から逃げた近衛文麿である」と主張している。だが実際は1941年10月14日の閣議において近衛が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と断固拒否した。これにより外交解決を見出せなくなった近衛は翌々日に辞表を提出した。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。また『細川日記』によれば、近衛は「昭和19年4月ごろまで、東條に政権を担当させ、最後まで全責任を負わせればよい」と東久邇宮に漏らした。東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[13]。それでも東條は、太平洋戦争時に置かれた日本の立場を必死に訴えたのである佐藤早苗[14]。
渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたというが、陽高において虐殺事件に見える行動をしている。陽高に突入した兵団は強硬な抵抗に合い、かなりの死傷者が出た。日本軍は占領すると場内の民兵とおぼしき男たちを狩り出してしばりあげ集団殺害した。その数350人ともいわれる(野砲四連隊史)が東條は誰も処分していない。この虐殺事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうと渡部昇一は評している。だが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。開戦半年後、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。
1944年に退陣する際には秘書の赤松貞雄が続投の可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような姑息な行動をやめるように命じたと赤松は自ら手記に書き留めている。だが、秦郁彦によれば、岸信介に対し、憲兵を使って辞表を書くように脅迫したにもかかわらず岸が辞表提出を拒否したため、3年近くつづいた東條内閣は瓦解したのであって、東條は天皇からも見放されていたのを知りつつ、なおもしがみつこうとしたが、赤松が進言したクーデター構想にはさすがに乗らなかったというだけである。
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ製国家日本」という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様に、トケイヤーから「英雄」と称えられている。 トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については、まず1937年にハルピンで開催されたナチスの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口季一郎らが出席したことに対し、当時、同盟国であったドイツが抗議。その抗議を東條が握りつぶしたこと。ただし、樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっている。
※帝国陸軍内においてナチスドイツ・ファシストイタリアとの三国同盟締結を推進したのは当時陸軍次官の東條であった。
ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相 は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」 と語っている。
東京裁判の判事の一人レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、又「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」と証言している。 また重光葵は東條について「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている。
家庭人としての東條は、息子達にはきびしい面を見せていたが、娘たちには甘すぎるほど優しかった。娘達とうれしそうに会話しながら晩酌を楽しんだり、コーヒーやシュークリームをほおばるなど、ごく普通の父親だった。戦後、開戦時の参謀総長だった杉山元が夫婦そろって自決したことで、娘婿の古賀秀正少佐は終戦直前に近衛師団長を暗殺して宮城事件を起こし失敗して自決し、本人も自殺未遂に終わった東條家は白眼視されることとなった[15]。
1941年頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東条はこれを大変可愛がっていた。[16]
[編集] 遺言
東條の遺書といわれるものは三通存在する。ひとつは1945年9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである。
以下は長男英隆に宛てたものである。これは1945年9月3日。すなわちミズーリ号で日本側代表団が降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。東條の直筆の遺言はこれのみである。
- 《英隆への遺言》
- 昭和二十年九月三日予め認む
- 一、父は茲に大義のため自決す、
- 二、既に申聞けあるを以て特に申し残すことなきも、
- 1、祖先に祭祀を絶やせざること、墓地の管理を怠る可らず
- 2、母に遠隔しつるを以て間接ながら孝養を尽せ
- 3、何なりとも働を立派に御奉公を全うすべし
- 4、子供等を立派に育て御国の為になる様なものにせよ
- 三、万事伊東に在る三浦氏に相談し援助を求むべし
以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。書かれた時期は判決を受けた1948年11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。
- 《東条英機大将 遺言(部分)昭和23年12月22日夜 東京巣鴨(23日零時刑執行)》
- 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるが、国内的の自分の責任は、死を持って償えるものではない。しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ、同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。天皇陛下および国民に対して深くお詫びする。
- 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には尊敬の念を禁じえない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。
- 現在の日本を事実上統治する米国人に一言する。どうか日本人の米国に対する心持を離れざるように願いたい。また、日本人が赤化しないように頼む。米国の指導者は大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊した。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。米英はこれを救済する責任を負っている。
- 日本は米国の指導にもとづき武力を放棄した。一応は賢明である。しかし、世界が全面的に武装放棄していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。
- 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。
- 我ゆくも またこの土に 帰りこん 国に報ゆる事の足らねば
以下は1945年9月11日にGHQに逮捕される前に書かれたとされるものである。この遺書は1952年の中央公論5月号にUP通信記者のA・ホープライトが東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で弁護人を勤めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保坂正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐について本人にも直接取材し、この遺書は偽書であると結論付けている。
- 《英米諸国人に告げる》
- 今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
- もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
- 諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
- 《日本同胞国民諸君》
- 今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
- ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
- 力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
- 諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
- 《日本青年諸君に告げる。》
- 《日本青年諸君各位》
- 我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
- 現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
- また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
- 真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
[編集] 子孫
長男は東條英隆。次男の東條輝雄はゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1 (輸送機)の設計に携わった有能な技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。他に三男東條敏夫、長女東條光枝、次女東條満喜枝、三女東條幸枝、四女東條君枝等の子がいた。家族の殆どが軍閥であり日本最大の軍閥名家でもあった。 A級戦犯分祀に強硬に反対し続ける東條由布子は孫(英隆の子)。A級戦犯合祀が問題になった際、木村兵太郎陸軍大将の妻で、処刑されたA級戦犯の遺族の会である白菊遺族会の会長でもあった木村可縫夫人らがA級戦犯分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。
[編集] 栄典
[編集] 脚注
- ^ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP研究所)によれば、予備役になった原因は日露戦争の作戦失敗の責任を負わされたとされている。また同期には秋山好古がいた。
- ^ 昭和天皇独白録、木戸幸一日記、細川日記
- ^ 赤松秘書官機密日記
- ^ 額田担回想録
- ^ 1946年9月16日朝日新聞等
- ^ 額田担回想録
- ^ 1944年7月15日付で「陸軍大臣東条英機」名で出された「陸密第二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」。
- ^ 秘録・石原莞爾
- ^ 秘録・石原莞爾
- ^ 陸海軍将官人事総覧 陸軍編
- ^ 額田担回想録
- ^ 加瀬俊一回想録
- ^ 秦郁彦「東京裁判 裁かれなかった人たち」『昭和史の謎を追う・下』
- ^ 『東條英機 封印された真実』
- ^ 額田担回想録
- ^ 『猫の歴史と奇話』、平岩米吉
[編集] 東條英機を描いた作品
[編集] 小説
- 有馬頼義 「左利きの独裁者―東条英機の悲劇」 (『(時代小説大全集6) 人物日本史 昭和』 ISBN 4101208158 に収録)
- 松田十刻 『東条英機―大日本帝国に殉じた男』 ISBN 4569577881
[編集] 映画
- 『大東亜戦争と国際裁判』 (1959)(東條役は嵐寛寿郎)
- 『激動の昭和史 軍閥』 (1970)(小林桂樹)
- 『大日本帝国』(1982)(丹波哲郎)
- 『プライド・運命の瞬間(とき)』(1998)(津川雅彦)
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
[編集] 一次資料及び当事者の証言、回想録
- 小田俊与 『戦ふ東條首相』、博文館新社、1943年4月 ISBNコード無し
- 田中新一 『田中作戦部長の証言』芙蓉書房 1956年
- 寺崎英成 『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』 ISBN 4163450505 (寺崎英成の娘、マリコ・テラサキ・ミラーが編集に協力)
- 木戸幸一・木戸日記研究会『木戸幸一日記』東京大学出版会 1966年 ISBN 9784130300117
- 参謀本部 『杉山メモ』原書房 1967年2月 ISBN 9784562001040
- バー・モウ『ビルマの夜明け』太陽出版 1973年6月 (1995年再販)ISBN 9784884691141
- 全国憲友会連合会 『日本憲兵正史』 全国憲友会連合会本部 1976年10月
- 細川護貞 『細川日記』中央公論新社 1978年8月
- 赤松貞雄 『東條秘書官機密日誌』文藝春秋 1985年
- 加瀬俊一 『加瀬俊一回想録』山手書房 1986年5月
- 保阪正康『東条英機と天皇の時代(上)-軍内抗争から開戦前夜まで』、伝統と現代社、1979年12月。ISBN 4167494019
- 同上 『東条英機と天皇の時代(下)-日米開戦から東京裁判まで』、伝統と現代社、1980年1月。ISBN 4167494027
- 佐藤早苗『東条英機「わが無念」-獄中手記・日米開戦の真実』、光文社、1991年11月。ISBN 4334970664
- 同上『東條英機 封印された真実』、講談社、1995年8月(絶版)。 ISBN 4-06-207113-4
[編集] その他
- 東條由布子『祖父東條英機「一切語るなかれ」』増補改定版(『文春文庫』)、2000年3月 ISBN 4-16-736902-8
- 東條由布子編『大東亜戦争の真実』、ワック、2005年8月、 ISBN 4898310834 (1948年発行「東條英機宣誓供述書」を改題、ワック版ではGHQ発禁第一号と宣伝されているがGHQの検閲は1945年の占領直後から始まっているので花田紀凱のハッタリと思われる)
- 小林よしのり『いわゆるA級戦犯 ゴー宣 special 』、幻冬舎 2006年6月 ISBN:4344011910
[編集] 外部リンク
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第38・39代 近衛文麿 |
第40代 1941 ‐ 1944 |
第41代 小磯國昭 |
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極東国際軍事裁判・A級戦犯 | ||
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