小田氏治
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小田 氏治(おだ うじはる、天文3年(1534年)- 慶長6年閏11月13日(1602年1月6日))は戦国大名。常陸の大名小田氏の十五代(最終)当主。小田政治の子。小田友治、小田守治の父。
[編集] 経歴
父が1548年に死去し、家督を相続した。しかし父と違い暗愚で、なおかつ河越夜戦での敗北により、父の晩年からすでに小田氏の衰退は始まっていたため、南進を目指す佐竹氏の侵攻を受けた。
1555年、上杉謙信とともに結城政勝を攻めたが敗れた。しかも翌年、政勝の反攻を受けて居城・小田城を奪われた。1557年には佐竹義昭に攻められて海老島城を失う。1558年も佐竹軍に敗れた。このため、北条氏康と手を結んで体勢を挽回しようとしたが、佐竹義昭の侵攻は激しく、またも敗れた。1564年にも上杉氏や佐竹氏の軍勢に敗れる。その後何度か小田城を奪い返すも、1569年には佐竹義重と手這坂の戦いで敗れて居城の小田城を再び失い、藤沢城に逃れた。以後、小田城が氏治の居城となることは無かったという。
その後も佐竹氏と抗争を繰り返すが、1583年、佐竹軍の攻勢に遂に敗れて孫を人質に差し出して降伏した。そして1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに滅亡したのである。