小笠原貞通
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小笠原 貞通(おがさわら さだみち、貞享3年5月2日(1686年6月22日) - 延享4年1月5日(1747年2月14日))は、豊前小倉新田藩(千束藩)の第2代藩主。父は小笠原忠雄(貞通は三男)。母は浅野光晟の娘・久姫(長寿院)。正室は伊東長救の娘。側室に藤井氏。官位は従五位下。近江守。
1686年5月2日、江戸にて生まれる。幼名は任次郎。1700年、先代藩主の小笠原真方の養嗣子となる。1709年に養父が讃岐にて溺死したため、その後を継いで藩主となった。正室の伊東氏とは仲が悪く、わずか2年で離別したが、側室の藤井氏との間は仲が良く、8男7女という子女に恵まれている。最初は次男の小笠原定政を後継ぎに選んでいたが、これが1739年6月12日に早世したため、六男の小笠原貞顕をもって後継者とした。
1747年正月5日、小倉にて死去し、後を貞顕が継いだ。法号は曹渓院殿安窓徹心。墓所は北九州市小倉北区の開善寺。
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