尼子国久
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尼子 国久(あまご くにひさ)は、戦国時代の武将。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 明応元年(1492年) | |||
死没 | 天文23年11月1日(1554年11月25日) | |||
別名 | 孫四郎(幼名) | |||
戒名 | 松厳良吟居士 | |||
官位 | 刑部少輔。紀伊守 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子経久 | |||
兄弟 | 兄:尼子政久、弟:塩冶興久 | |||
子 | 尼子誠久、尼子豊久、尼子敬久、 娘(尼子晴久室) |
[編集] 生涯
明応元年(1492年)、出雲の戦国大名・尼子経久の次男として生まれる。国久は邸宅が月山富田城の東北にある新宮谷にあったことから名づけられた尼子氏の武闘派実行部隊と呼ばれた戦闘集団・新宮党の頭領であった。父・経久や甥の晴久を助けて勢力拡大に貢献し、多大な武功を挙げた。このため、父から晴久の後見人に指名されている。しかし父の死後、後を継いだ甥(かつ娘婿)の晴久とは仲が悪く、次第に対立を深めていった。
天文23年(1554年)に甥の尼子晴久によって一族と共に誅殺された。享年63。
[編集] 人物
- 父・経久からは、「文に疎く政道に誤りがあるかも知れぬが、軍務にかけては鬼神のごとき」と言われるほどの武勇を備えていた猛将であった(雲陽軍実記)。
- 晴久によって粛清された理由については、その武勇をかさに着て横柄で傲慢な態度も少なくなかったため、晴久自らの意思で粛清したとも、尼子家と対立していた毛利元就による謀略説と言われている。
- 尼子国久の死は、尼子氏と毛利氏の軍事力を完全に逆転するものとなるばかりではなく、尼子氏衰退の遠因ともなったのは確かである。