尼子誠久
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 永正7年(1510年)? | |||
死没 | 天文23年(1554年) | |||
官位 | 式部大輔 | |||
氏族 | 尼子氏 | |||
父母 | 父:尼子国久 | |||
兄弟 | 弟:尼子豊久、尼子敬久 | |||
子 | 尼子氏久、尼子吉久、尼子季久、尼子勝久 |
- 名の読み方は一般的には「さねひさ」。他に「まさひさ」、「なりひさ」の説もある。
[編集] 生涯
永正7年(1510年)、尼子国久の嫡男として生まれる。父同様に武勇に優れ、新宮党の一員として数多の武功を挙げ、尼子氏の勢力拡大に貢献した。
しかし、その武勇をかさにきて、傍若無人な振る舞いも少なくなかった。『陰徳太平記』、『雲陽軍実記』では、「館前、目の届く限り乗馬無用」(下馬令)とあるほどである。(注:あくまでもこれは「軍記物語」での記述であり実際は不明)そのため天文23年(1554年)、父と共に粛清されてしまったのである。一説に誠久は晴久の命令を受けた大西十兵衛、立原備前守(久綱の兄)によって暗殺されたという。享年45。
誠久の4男は家臣の手で京に逃れ、僧籍に入っていたが、後に還俗して尼子勝久と名乗ることになる。
[編集] 人物・逸話
- 傍若無人であっても元就が恐れたほどの武勇に優れた誠久を殺したことは、尼子氏を衰退させる決定的要因となった。