新宮党
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新宮党(しんぐうとう)とは、尼子経久の次男である尼子国久が率いた尼子軍の精鋭であり、数々の合戦で多くの戦功を挙げた。
国久は自らの館を月山富田城(島根県安来市広瀬町)の北麓新宮谷に構えたことから新宮党を称した。その強さは、宿敵・毛利元就を恐れさせる存在であった。
新宮党が、尼子軍の中心勢力であったことから、新宮党を率いる国久と息子誠久の態度は荒々しく横柄であり、その態度を嫌う尼子氏当主である尼子晴久を始めとする他の重臣たちとの間に確執が生じる。天文23年11月1日(1554年11月25日)、尼子晴久は家中の統一を図るために危険分子とみなしていた国久、誠久親子ら新宮党幹部を粛清する。その後晴久は尼子氏久に新宮党を率いさせるものの実態面において新宮党はここに滅亡する。やがて一族の最精鋭である新宮党を失った尼子氏は、徐々に毛利元就に追い詰められ滅亡することとなる。国久、誠久親子の粛清には宿敵毛利元就の謀略が働いたと言われている。