尼子氏久
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尼子 氏久(あまご うじひさ、? - 天正6年(1578年))は尼子誠久の嫡男とされるが、実は吉田郡山城攻略戦で戦死した尼子久幸(経久の弟)の子・「尼子経貞」の事と思われる。父の死後、誠久の養子となった。幼名孫四郎。新宮党党首。
父の死後、幼少であったためその所領を新宮党首である叔父の尼子国久に預けられ、氏久の成人後にその領地を返還する約束となっていた。しかし氏久の成人後も所領返還の約束は実施されないままであったため、尼子晴久に新宮党の専横を報告、結果的にこれがきっかけとなり新宮党は滅ぼされることとなる。
国久らの死後、晴久の命により新宮党を継ぐものの弱体化した新宮党は、もはや尼子氏の藩屏となるべき戦力を有していなかったため、氏久は尼子氏を離れ、母の実家である多賀氏を頼ったものと推測される。
後に尼子再興軍に参加し、1578年の上月城の戦いで敗北し、降伏。その際に首謀者として尼子勝久らと共に切腹している。
推測ではあるが、名目的には新宮党の党首であり、その党首の座を尼子勝久に譲ったために毛利氏からは尼子氏再興の首謀と目され、自害に追い込まれたものと思われる。