山崎家盛
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山崎 家盛(やまざき いえもり、1567年(永禄10年) - 1614年11月19日(慶長19年10月18日))は、安土桃山時代、江戸時代の大名。山崎片家の嫡男。官位は従五位下、左馬允。正室は池田信輝の娘で池田輝政の姉・天球院。
天正19年(1591年)、父・片家が没したために後を継ぎ、摂津国三田城2万3千石の城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成の挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝えるなど、徳川方としての動きを見せる。しかし実際は、家康に三成挙兵の報告後に、大垣城に拠っていた三成と面会し西軍に与することを約束するなど、石田方として動くことになる。家盛は、細川藤孝が守る丹後国田辺城攻めに参戦。しかし積極的に攻め入ることなく、ほとんど膠着状態のまま帰結した。戦後、家盛は徳川家康から石田方に与した罪により改易されそうになるが、義兄の池田輝政の尽力や石田三成の挙兵の報告をした功があるとして許され、山崎家を近世大名して存続させることに成功する。その後翌慶長6年(1601年)に、三田藩から因幡国若桜藩3万石に加増転封となり、慶長19年(1614)に死去。
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