山科家
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山科家(やましなけ)は、羽林家の家格を有する公家。藤原北家四条流。家名は家領があった京都山科荘に由来する。家業は装束・衣紋で江戸時代には高倉家(藪家)とともに装束色目を担当した。江戸時代の家禄は300石。
四条家成の六男実教の猶子となった権中納言教成を祖として平安時代末期に創設された[1]。南北朝時代の山科教言以後、代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を運営した。戦国時代の言継(ときつぐ)は日記『言継卿記』を著した。『言継卿記』は、戦国時代の京都を中心とする畿内の情勢を知る上で必要不可欠な一級史料として知られる。言継の息子言経は、勅勘をこうむり摂津国に下ったため、一族の教利が一時期、山科を名乗り朝廷に仕える、しかし、徳川家康の意向により、言経が朝廷に複帰したため、教利は、猪熊教利と名を変えざるをえなくなった。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 今谷明『戦国時代の貴族 「言継卿記」が描く京都』(講談社学術文庫、2002年) ISBN 4061595350
- 菅原正子『中世公家の経済と文化』(吉川弘文館、1998年) ISBN 4642027629
- 中世山科家の家領経営と家業。
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