猪熊教利
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猪熊教利(いのくま のりとし、生年不詳 - 慶長14年10月17日(1609年11月13日))は、日本の江戸時代初期の公家。極官は左近衛少将。猪熊家は藤原氏、山科家の庶流。祖父は山科言経。
「天下無双」と讃えられた美男子で、その髪型や帯の結び方が「猪熊様(いのくまよう)」と称されて、京都の流行になるほど評判の貴公子であったが、かねてから女癖の悪さにも定評があり、「公家衆乱行随一」と称されていたという(『当代記』戸田茂睡)。
慶長12年(1607年)2月、宮廷女官との密通が明らかとなり、後陽成天皇から勅勘(天皇からの勘当)を蒙って京都から追放され、出奔する。しかし、すぐに京へ戻ったと思われる。その後も素行は修まらず仲間の公卿を誘って女官と不義密通を重ねていたらしく、後陽成帝寵愛の官女とも関係を持っていたという。
慶長14年(1609年)7月参議烏丸光広ら公家衆の密通が露顕する事件が起きると、乱交の手引きをしていた教利は幕府(京都所司代)の追及を受けることを恐れ、九州へ逃亡した(朝鮮へ脱出するつもりだったともいう)。同年9月16日、日向に潜伏していた時に捕らえられ、京都へ送られた。同10月17日、常禅寺において斬刑に処せられた。