山野井泰史
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山野井 泰史(やまのい やすし、1965年 - ) は、東京都出身のソロクライマー。身長165cm、体重58kg。東京都西多摩郡奥多摩町在住。
高校就学時よりアルパイン・クライミングに傾倒。高校卒業後はアメリカ合衆国のヨセミテなどでロッククライミングの分野でも優れた成果を挙げる。今や世界トップクラスのフリークライマー平山裕示と共にルートに挑戦したことは、日本のクライミング史でも貴重な出来事であろう。その後はビッグウォールに転身し、妻の妙子とともに、毎年新ルートの開拓において目覚しい成果を残す。ギャチュン・カン北壁の登攀後、嵐と雪崩に巻き込まれ重度の凍傷に罹り手足の指11本を切る。しかしクライミングへの熱意は全く冷めず、オールラウンドな挑戦を続けている。名実ともに現在世界最強のソロクライマーである。
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[編集] 経歴
- 1965年:東京都小金井市生。
- 1969年:千葉市に移る。
- 1980年 15歳:日本登攀クラブに入会。
- 1984年-1985年 18歳~20歳:ヨセミテのビッグウォ-ルに挑む。
- 1986年 21歳:ヨセミテ、コズミックデブリ(グレード:5.13a)。
- 1987年 22歳:ヨセミテ、スフィンクス・クラック(5.13b):ラーキングフィアー単独第3登:アルプス、ドリュ西壁フレンチダイレクト単独初登。
- 1988年 23歳:北極圏、トール西壁を7日間で単独初登。
- 1989年 24歳:パタゴニア、フィッツロイ(3,441m)冬季単独登攀(敗退)。
- 1990年 25歳:フィッツロイ冬季単独初登。
- 1991年 26歳:ヒマラヤ、ブロード・ピーク登頂(極地法)。
- 1992年 27歳:ヒマラヤ、アマ・ダブラム(6,812m)西壁冬季単独初登壁。奥多摩町に移る。
- 1993年 28歳:ヒマラヤ、ガッシャブルム4峰東壁単独登攀の撤退後、2峰登頂。
- 1994年 29歳:ヒマラヤ、チョ・オユー南西壁単独初登(新ルート開拓)。
- 1995年 30歳:ヒマラヤ、レディースフィンガー南西壁初登(妙子ら3人で):ヨセミテ、エルキャピタン南東壁:ロスト・イン・アメリカルート(グレード:5.10/A5)登頂。
- 1996年 31歳:ヒマラヤ、マカルー西壁(単独、敗退)。
- 1997年 32歳:アンデス、ワンドイ東壁登頂。ヒマラヤ、ガウリシャンカール(7,134m)北壁(単独、敗退)。
- 1998年 33歳:ヒマラヤ、クスム・カングル(6,367m)東壁単独初登:マナスル北西壁、雪崩により撤退(妙子と)
- 1999年 34歳:アンデス、アルパマヨ南西壁、アルテソンフラ南壁:バンユラフ東壁登攀:ヒマラヤ、パキスタン無名岩峰(5,900m)登頂。
- 2000年 35歳:ヒマラヤ、K2南南東リブ無酸素アルパインスタイルによる単独初登。
- 2001年 36歳:ヒマラヤ、ラトックI峰(7,144m)北壁登攀(ヴォイテク・クルティカと、撤退):ビャヒラヒ・タワー南稜登頂(新ルート初登、クルティカ、妙子と)。
- 2002年 37歳:ヒマラヤ、ギャチュン・カン北壁単独登頂。
- 2004年 39歳:中国、ポタラ北壁(敗退)。
- 2005年 40歳:ポタラ北壁単独登頂。
- 2006年 41歳:ヒマラヤ、パリラプチャ北壁登攀(敗退)。
[編集] 受賞歴
- 1994年:オペル冒険賞
- 2000年:文化科学賞スポーツ功労賞
- 2002年:朝日スポーツ賞・植村直己冒険賞
[編集] 参考文献
- 沢木耕太郎著『凍』 - ISBN 410327512x ギャチュン・カンの登攀の物語
- 自著『垂直の記憶 岩と雪の7章』 - ISBN 4635140059