岡正雄
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岡 正雄(おか まさお、1898年 - 1982年)は、長野県松本市生まれの民族学者。戦中戦後を通じて日本の民族学・文化人類学を主導した。兄は民族学や考古学、山岳書の名著を多数出版した岡書院店主の岡茂雄。
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[編集] 経歴
松本中学、第二高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。卒論は「早期社会分化における呪的要素」。東京女子歯科医学専門学校のドイツ語教師を経て、1925年から柳田國男とともに民族学雑誌『民族』を共同編集し、岡書院から刊行した(~1929年)。1929年(昭和4)、渋沢敬三の援助を得てオーストリアへ渡り、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで民族学を学ぶ。1933年(昭和8)に同大学より博士号を授与される。
1935年に帰国し、1937年には日本民族学会が主催した千島樺太調査に随行。1938年、ウィーン大学が設立した日本学研究所の所長として招かれ、戦況の悪化する1940年まで再びウィーンに滞在した。帰国後は文部省直轄の民族研究所設立に奔走し、1943年の同研究所発足時には総務部長として従事。
戦時下の国策機関であった民族研究所は敗戦とともに閉鎖され、岡もしばらくは郷里の松本で農業に従事していたが、その後、日本民族学協会理事長として学界に復帰し、1951年の東京都立大学への赴任を皮切りに、明治大学教授、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長などを歴任し、多くの研究者を指導した。
[編集] 評価
岡が留学した当時のウィーン大学民族学研究所には、ウィーン学派と呼ばれるシュミットやコッパース、ハイネ=ゲルデルンなど文化史的民族学の黄金期を支えた研究者が結集しており、岡による学説紹介は、彼が用いる「エトノス」や「種族文化複合」などの概念とともに当時の日本の民族学に大きな理論的影響を与えた。また寡作であったにも関わらず岡が理論的指導者たり得た一因には、しばしば「座談の名手」と称されるように、人を教え導く力に長けていたことも挙げられる。
指導者としての才はまた、草創期の民族学のオーガナイザーとしても高く評価されている。民族学が未だ大学に基盤を持たなかった時代においては、人類科学全般の研究会「APE会」や雑誌『民族』の編集作業を通し、学会組織化の土台となる人的ネットワークを作り、戦後の学制のもとでは東京都立大学大学院にいち早く社会人類学の専攻を設けることで、東京大学の石田英一郎とともに大学での文化人類学の研究・教育制度を築いた。
一方近年では、岡が戦時中に軍部との強い繋がりを持っていた側面も明らかにされている。文部省民族研究所の設立にみられるように、当時は植民地における民族政策面での要請から民族学が国策学問として重用されることが多く、軍部と民族学者とを取りまとめる立場にあった岡は、学問と植民地主義の結びつきを検証する人類学史では批判的に描かれることも多い。
[編集] 未刊の大著『古日本の文化層』
ウィーン大学へ提出した博士論文『古日本の文化層』は、当時のウィーン学派民族学の手法をベースに、先史・考古学、言語学、宗教学、形質人類学、神話学の手法を併せて日本の基層文化を論じた、5巻1452ページに及ぶ畢生の大著であり、寡作だった岡にとっては、まさに代表作と言える。しかし、現在に至るも邦訳は無く、未刊のままとなっている。ただし、戦後の1948年(昭和24)5月4日から6日にかけて、東京神田の喫茶店2階で行なわれた、民族学者の石田英一郎や考古学者の江上波夫及び八幡一郎らとの座談会の内容をまとめた『日本民族の起源』は、岡の論文の内容を基礎として展開されている。また、住谷一彦が、岡の論文の目次部分を邦訳して簡単な紹介を加えている(住谷1983)。
[編集] 著作
- 『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』岩波文庫、岩波書店、1994年。
[編集] 翻訳
- シャーロット・ソフィア・バーン 『民俗學概論 英國民俗學協會公刊』、岡書院、1927年。
- オスワルド・メンギーン『石器時代の世界史』上巻、聖紀書房、1943年。
- 下巻は未刊。下巻目次の邦訳のみ上巻に所収。
[編集] 引用・参考文献
- 住谷一彦「岡正雄「古日本の文化層」-或る素描-」『歴史民族学ノート』未来社、1983年、173~197頁。
- 岡正雄、石田英一郎、江上波夫、八幡一郎『日本民族の起源』平凡社、1958年。
- 大林太良「解説」大林太良編『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』岩波文庫、岩波書店、267~277頁。
- 坂野徹 『帝国日本と人類学者 1884-1952年』、勁草書房、2005年。