渋沢敬三
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
渋沢 敬三(しぶさわ けいぞう、1896年(明治29年)8月25日 - 1963年(昭和38年)10月25日)は、日本の財界人、民俗学者、日本銀行第16代総裁、幣原内閣の大蔵大臣。渋沢栄一の孫。子爵。
目次 |
[編集] 生涯
渋沢敬三は渋沢栄一の長男・渋沢篤二と敦子夫妻の長男として生まれた。敦子の父・伯爵橋本実梁の養父橋本実麗は皇女和宮の母・観行院 (新典侍橋本経子) の兄にあたる。
敬三はもともと動物学者を志し、仙台の旧制第二高等学校農科に進学することを目指した。しかし実父の篤二が廃嫡されると、祖父・栄一は羽織袴の正装で頭を床に擦り付けて敬三に第一銀行を継ぐよう嘆願、結局これを受けて英法科に進学する。東京帝国大学経済学部を卒業後、横浜正金銀行に入行し、ロンドン支店などに勤務した。 その間に木内重四郎・磯路夫妻の次女・登喜子と結婚している。登喜子の父・重四郎は京都府知事等を務めた官僚で、母・磯路は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の次女。 従って敬三は岩崎弥太郎の孫娘と結婚したことになる。1926年に第一銀行へ移り、副頭取などを経て、1942年に日本銀行副総裁、1944年には第16代総裁となる。当時の軍部の圧力によるインフレーション政策の下で、日銀は敗戦まで赤字国債を無制限に引き受け、民間では調達できない軍需融資の資金も日銀の貸し出し増加という形で無制限に供給しており、敬三もこれに従うしかなかった。
第二次世界大戦直後、姻戚の幣原喜重郎首相 (幣原の妻・雅子と敬三の姑・磯路は姉妹) に乞われるかたちで大蔵大臣に就任。半年ほどの在任中に預金封鎖、新円切り替え、財産税導入など戦後の激しいインフレーションの処理に当たった。だが渋沢家はGHQの財閥解体の対象となり、1946年には公職追放の指定を受ける。 そして自ら導入した財産税のため、三田の自邸を物納することにもなった。公職追放を解除された後は、経済団体連合会相談役、国際電信電話(KDD。のちのKDDI)社長、文化放送社長、高松宮家財政顧問などを務めた。
その傍ら、若き頃の柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、東京 三田にある自邸の車庫の屋根裏に二高時代の同級生とともに動植物の標本、化石、郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミュージアム」を開設し、アチック・ミュージアムに収集された資料は現在の国立民族学博物館の母体となった。アチックミュージアムはその後、日本常民文化研究所となり、現在は神奈川大学に移管されている。
自らも民俗学にいそしみ、漁業史の分野で功績を残した。祖父・栄一の死去後の1932年には、療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)で大川四郎左衛門家文書を発見。 一つの村の400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活が記録されていたこの文書を持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチックの同人らとともに纏めた『豆州内浦漁民資料』を刊行し、日本農学賞を受賞した。 このほか、『日本釣魚技術史小考』、『日本魚名集覧』、『塩俗問答集』などを著した。
また多くの民俗学者を育て、宮本常一、白鳥庫吉、梅棹忠夫、江上波夫、中根千枝、川喜多二郎、今西錦司、網野善彦らが彼の援助を受けて成長した。他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者になりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。
[編集] 略歴
- 1896年 渋沢篤二と敦子の長男として東京に生まれる。
- 1900年 祖父の渋沢栄一に男爵が授爵。
- 1909年 東京高等師範学校附属中学に入学。
- 1913年 渋沢家の嫡男である父・篤二が廃嫡。祖父の栄一は敬三を後継者に指名。
- 1914年 柳田国男と初めて出会う。
- 1915年 仙台の旧制第二高等学校に入学する。渋沢同族会社の社長となる。
- 1918年 東京帝国大学法科経済科入学。
- 1920年 渋沢栄一、子爵に陞爵。
- 1921年 「アチック・ミュージアム(屋根裏博物館)」をつくる。横浜正金銀行に入行。
- 1922年 岩崎弥太郎の孫・木内登喜子と結婚。ロンドン支店勤務を命ぜられ、渡英。
- 1925年 長男・雅英(渋沢栄一記念財団理事長)誕生。
- 1926年 第一銀行に移り、取締役に就任。
- 1930年 長女・紀子(佐々木繁弥と結婚)誕生。
- 1931年 祖父栄一死去にともない子爵を襲爵。
- 1933年 次女・黎子(服部勉と結婚)誕生。
- 1934年 日本民族学会を設立し、理事となる。
- 1937年 保谷に民族学博物館を開設し、アチック・ミュージアムの資料を移管する。
- 1941年 第一銀行副頭取就任。
- 1942年 日本銀行副総裁就任。
- 1944年 日本銀行総裁就任。
- 1945年 空襲のため、三田にある自邸の一部が焼失。幣原内閣の大蔵大臣に就任。日本銀行総裁は辞任。
- 1946年 公職追放。蔵相として自ら創設した財産税のために、三田の自邸を物納。高松宮家財政顧問となる。
- 1947年 妻・登喜子と別居。
- 1951年 公職追放解除。経済団体連合会相談役。
- 1953年 国際電信電話(KDD)設立に伴い、社長に就任。
- 1957年 外務省移動大使として、中南米各国を歴訪。
- 1960年 旅先の熊本で発病。東京大学附属病院に入院。
- 1963年 朝日賞受賞。糖尿病と腎萎縮を併発し死去。
[編集] その他
[編集] 参考文献
- 網野善彦ほか編『渋沢敬三著作集<第1巻~第5巻>』(平凡社、1992年~1993年)
- 渋沢雅英『父・渋沢敬三』(実業之日本社、1966年)
- 『渋沢敬三<上・下巻>』(渋沢敬三伝記編纂刊行会、1979年)
- 佐野眞一『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋、1996年)
- 佐野眞一『渋沢家三代』<文春新書>(文藝春秋、1998年)
[編集] リンク
|
|
|
|
|
|