岡部元信
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 不明 | |||
死没 | 1581年4月25日(天正9年3月22日) | |||
主君 | 今川義元、氏真、武田信玄、勝頼 | |||
父母 | 父 岡部信綱 | |||
兄弟 | 正綱、元信 |
岡部 元信(おかべ もとのぶ、生年不詳 - 天正9年3月22日(1581年4月25日))は、室町時代・安土桃山時代の武将。 通称は五郎兵衛。長教、元綱、真幸とも。岡部信綱(岡部親綱)の子。岡部正綱の弟(親子説もあり、同族だが親子兄弟ではないとする説もある)。丹波守を自称し、今川氏、次いで武田氏に仕えた。
父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人。天文17年(1548年)の小豆坂の戦いで戦功をあげた後、尾張の鳴海城在番となる。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは鳴海城を拠点に織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続けるが、主君の首と引き換えに開城。駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を攻撃、水野信近を討ち取り城を焼き払った。
永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏真が駿府を追われると降伏して武田氏に仕え、高天神城の守将に任じられる。
天正9年(1581年)、徳川軍は横須賀城を拠点に高天神城を攻撃し開城させた。この際に岡部元信は敵軍に斬り込み、討死をとげた。