岡部長備
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岡部 長備(おかべ ながとも、宝暦13年3月4日(1763年4月16日) - 享和3年11月5日(1803年12月18日))は、和泉岸和田藩の第8代藩主。父は第7代藩主・岡部長修(長備は長男)。正室は青山忠高の娘。子に長周、長慎、娘(堀直哉室)、娘(大田原光清室)。官位は従五位下、美濃守。
宝暦13年(1763年)3月4日、岸和田で生まれる。幼名は富三郎。安永5年(1776年)5月に世子となり、同年8月18日に父の隠居で後を継いだ。しかし天明の大飢饉などによる天災などで藩内を凶作が襲いかかり、それによって天明2年(1782年)8月には藩内の各所で強訴が起こった。天明7年(1787年)、老中として権勢を振るっていた田沼意次が失脚したことにより、遠州相良城の破却を務めている。享和3年(1803年)11月5日、早世した長男の岡部長周の後を追うように死去し、家督は次男の岡部長慎が継いだ。墓所:東京都新宿区榎町の済松寺。
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