島津忠信
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島津忠信(しまづただのぶ、生没年不詳)は南北朝時代の武将。名は「忠章」とされることもある。
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[編集] 系譜
越前島津氏の一族であるが、系譜については諸説あり、越前島津氏祖忠綱の三男忠景の嫡子忠宗の子とも、忠宗の子忠秀の子ともいう。また、忠綱の庶子安芸守忠氏の曾孫とする説もある。
[編集] 生涯
越前国上河北(現福井市)に居住し、官途は従五位下安芸守に至るが、一向宗三門徒派如道上人に帰依し出家、祖海(そかい)と号した。如道の高弟としてこれをよく助け、自身も上河北に専光寺を創立している(『専照寺文書』・『専光寺文書』)。『薩藩旧記雑録』前編に「忠綱の子孫、越前にて繁昌候」とあり、その中に「河北殿」を挙げているが、これは上河北を本拠とした忠信の一族を示すものであろう。
[編集] 専光寺
上河北の専光寺は延享2(1745)年、福井藩の要請によって木田辻町(現・福井市西木田)に移転(『越藩拾遺録』、『越前国名跡考』)して現在に至っており、寺紋は丸に十の字・住職は島津姓である。また専光寺から派生した弘誓(ごせ)寺は、天明5(1785)年6月22日に本願寺より寺号公称認可されたものであるが、同寺では明治27(1894)年9月17日に越前島津氏(播磨家)の子孫による元祖忠綱公650回忌大法要が行われている。弘誓寺も福井市和田中に現存する。このように、専光寺は後世に至るまで越前島津氏との縁故を保持しながら存続している。ただし、明治27年を忠綱の650回忌とするのは誤りで、明治27年より650年を遡る寛元2(1244)年の時点で忠綱が生存していたことは『吾妻鏡』等により明白である。忠綱の死は少なくとも弘長3(1261)年以降であり、文永5(1268)年頃と推測される(詳細は「島津忠綱」の項目参照)。弘誓寺の寺伝に、忠綱が寛元2年に没したとする誤伝があり、これが根拠とされてしまったと思われる。
[編集] 『太平記』に登場?
『太平記』巻第八「(元弘3(1333)年)四月三日合戦の事」に六波羅探題側の武将として活躍する「島津安芸前司」は、「北国無双の馬上の達者」という記述から北陸地方に土着した越前島津一族と思われ、年代や官名から考えて忠信である可能性が強い。なお、この戦で島津安芸前司は、後醍醐天皇に呼応して参戦した備中国の住人頓宮又次郎入道・孫三郎父子、田中藤九郎盛兼・同弥九郎盛泰兄弟という屈強の武者を相手に子息2人を従えて見事な戦いを演じ、「西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つ返つ懸違へ、人交もせず戦ひける。前代未聞の見物也」と評されている。