島津継豊
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島津 継豊(しまづ つぐとよ、1702年1月19日(元禄14年12月22日) - 1760年10月28日(宝暦10年9月20日))は、島津氏第22代当主。薩摩藩の第5代藩主。第4代藩主・島津吉貴の長男。母は名越氏。子に宗信、重年、菊姫(黒田重政室)ら。官位は従四位上、大隅守、左近衛中将。
元禄14年(1701年)12月、島津吉貴の長男として生まれた。享保6年(1721年)6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぎ、藩主となる。同年12月、左近衛少将を叙任する。享保14年(1729年)には従四位下。左近衛中将を叙任した。元文2年(1737年)3月、弟の島津忠紀に越前島津氏を再興させた。延享元年(1744年)5月、同じく弟の島津忠郷に今和泉氏を再興させている。
継豊は当初毛利吉元の娘を正室としていたが、彼女が早世した後徳川吉宗の斡旋もあって、五代将軍綱吉の養女竹姫と婚姻した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという憶測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中松平乗邑の斡旋もあって、継豊には既に嫡男が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないという条件で受け入れたという。
延享3年(1746年)11月、隠居して長男の島津宗信に家督を譲って隠居した。
宝暦10年(1760年)9月、60歳で死去した。晩年は子の宗信や島津重年が早世するなどの不幸もあったが、自身は孫の島津重豪の代まで生きて藩政を取り仕切った。
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