松平乗邑
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松平乗邑(まつだいら のりさと、貞享3年1月8日(1686年1月31日) - 延享3年4月16日(1746年6月4日))は、日本の武士・大名、老中。
14松平家の一つである大給松平家の出身。松平乗春の長男。母は奥平昌能の娘。幼名は源二郎、初名は乗益。弟忠暁は桑折藩松平忠尚の養子となる。室は土屋政直の娘。子に松平意乗、松平乗祐、松平乗薀、牧野明成室、岡部長著室。官位は従四位下、侍従・左近将監。
はじめ肥前唐津藩主。その後志摩鳥羽、伊勢亀山、山城淀と転封を続ける。正徳元年(1711年)には、近江守山において朝鮮通信使の接待を行っている。享保8年(1723年)老中となり、下総佐倉に転封。以後足掛け20年余りにわたり徳川吉宗の享保の改革を推進し、足高の制の提言や勘定奉行の神尾春央とともに年貢の増徴や大岡忠相らと相談して刑事裁判の判例集である公事方御定書の制定、太閤検地以来の幕府の手による検地の実施などを行う。
水野忠之が老中を辞任したあとは老中首座となり、後期の享保の改革をリードし、元文2年(1737年)には勝手掛老中となる。譜代大名筆頭の酒井忠恭が老中に就くと、老中首座から次席に外れる。
将軍後継には吉宗の次男の田安宗武を将軍に擁立しようとしたが、長男の徳川家重が9代将軍となる。このため家重から疎んじらるようになり、延享2年(1745年)、家重が将軍に就任すると直後に老中を解任され、加増1万石を没収され、隠居を命じられる。
子の松平乗祐に家督相続は許されたが、間もなく出羽山形に転封を命じられた。
延享3年(1746年)に死去、享年61。
法名は源壽院殿晃月心英忠大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の光明山和合院天徳寺。
[編集] 主な出来事
- 1690年(元禄3)11月10日、家督相続(唐津6万石)
- 1691年(元禄4)2月9日、鳥羽に転封。
- 1710年(宝永7)1月26日、亀山に転封。
- 1717年(享保2)12月不日、淀に転封。
- 1722年(享保7)6月1日、大坂城代。
- 1723年(享保8)1月15日、大坂城代免、4月21日、老中、5月1日、下総佐倉に転封。
- 1730年(享保15)6月12日、老中首座。
- 1745年(延享2)1万石加増・都合7万石。9月1日、老中次席。10月9日、老中免職・差控。翌日、加増分の1万石減封・隠居を命じられる
[編集] 官職位階履歴
- 1699年(元禄12年)12月21日、従五位下和泉守
- 1722年(享保7年)7月12日、左近衛将監に遷任。
- 1723年(享保8年)12月15日、従四位下。
- 1724年(享保9年)11月9日、侍従兼任。
(※日付は旧暦)
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