島津義虎
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島津義虎(しまづよしとら、天文5年(1536年)-天正13年(1585年))は、戦国時代の薩摩の武将。薩摩の戦国大名、島津氏の分家である薩州家の6代当主。父は5代当主、実久(實久)。幼名は又三郎、三郎太郎。八郎左衛門。官は薩摩守。室に御平(島津宗家16代当主、島津義久の女)。子に忠辰(7代)、忠隣(島津歳久の養子に)、忠清、忠豊。
薩摩島津氏の分家、薩州家6代当主で薩摩出水の領主。5代当主、実久の長男。父の実久は薩摩守護職を巡り伊作家の島津忠良・島津貴久親子と対立していたが、義虎は早くから島津宗家に従う姿勢をみせていた。
天文22年(1553年)、実久の死去によって家督を継ぐと肥後相良氏の備えにつく。永禄11年(1568年)、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・菱刈氏の連合軍が挙兵。義虎は詰めていた羽月城を退去、本領の出水へ退却したため島津義久の怒りを買っている。天正15年(1581年)には相良氏討伐の先鋒となり相良氏を下す。龍造寺氏との沖田畷の戦いにも従軍し軍功を挙げた。島津一門では当主の義久に次ぐ地位にあり、領地も出水のほか高城・水引・山野など3万1900石の禄高を領した。天正13年(1585年)、死去。享年50。