島津歳久
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島津歳久(しまづとしひさ、天文6年(1537年) - 天正20年7月18日(1592年8月25日))は島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。戦国大名としての島津氏の中興の祖・島津忠良の孫。左衛門督を名乗った。日置家の祖。
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[編集] 生涯
祖父の忠良から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされていて、稀代の「智将」といわれた。豊臣秀吉の九州征伐の際にも家中が抗戦へ傾く中「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」として、四兄弟中ただ一人上方との和平を唱えていた。「豪気類を絶する」とも称えられ、天下人であった秀吉に生涯屈しなかった。
[編集] 秀吉の駕籠に射かける
秀吉の九州征伐で婿養子・島津忠隣を失ったことから秀吉に対して反抗的な態度を取り続けた、といわれる。兄が秀吉に降伏した後、秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中、歳久の祁答院領の西端の山崎にさしかかった時、秀吉の駕籠に矢が射かけられた。六本撃ちかけたが空駕籠だった。矢を射かけたのは歳久の家来の本田五郎左衛門であった。
[編集] 秀吉の逆鱗に触れる
1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄の役)も病気を理由に出陣しなかった。しかしこのように反抗的な態度を取り続けたことと、同年に島津氏の家臣・梅北国兼が秀吉に対して反乱(梅北一揆)を起こしたとき、その反乱軍に歳久の家臣が多く参加したことなどから秀吉の怒りを買うことになり、兄・義久の追討を受けて自殺しようとしたが、追手が立ちはだかっていたため、竜ヶ水に上陸した。自害しようしたものの、体が不自由なため、上手く自害できず、また追手も太守の実弟ということで手が出せずいたところで「早う近づきて首を取れ」と歳久が言い暫くの後、原田甚次が首を取った。享年56。亡骸を調べると義久に宛てた遺書が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤殿下の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではない」という主旨の文がしたためられていたという。
[編集] 歳久のその後
首級は京都・一条戻橋に晒された後京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った。現在の平松神社はこの心岳寺の跡地に立てられたもの。毎年旧暦7月18日にはその遺徳を偲んで「心岳寺詣り」が行われる。
また、自害の折刀を握ることが出来ず、傍らの石を持って自害せんとして苦痛を味わったとも伝えられている。この際に「女性もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女性の苦しみを救ってやろう」と言ったともされており、平松神社には「戦の神」として以外に「安産の神」としても信仰されている。