平忠正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平 忠正(たいらのただまさ、生年不詳 - 保元元年7月28日(1156年8月15日))は平安時代末期の武将。平正盛の子、忠盛の弟。右馬助。
兄の忠盛やその子清盛とは早くから不和であったと伝わる。藤原頼長に親しく仕えた縁により、保元の乱では崇徳上皇方に与して清盛と戦う。忠正は源為義と並ぶ上皇方の重鎮として活躍するが、武運つたなく敗北。しばらくの潜伏の後、長盛・忠綱・正綱・通正の四子とともに自首し、囚われの身となる。そして甥の清盛に預けられるが、さしたる助命嘆願もなく親子五人並んであっさりと処刑されてしまった(なおこの際、名前の読みが藤原忠雅と同じであることを憚り、「忠貞」と改名させられたという)。
これは一説に、源氏の勢力減退を目論む清盛が、自分が進んで叔父の忠正を処刑することで、同じく罪人となった源為義をその子義朝が斬らざるを得ないよう仕向けるための作戦だったといわれている。
なお後年、服部氏、戸島氏などが忠正の子孫を称している。