平盛綱
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平盛綱は、
[編集] 平盛綱(高橋左衛門尉)
平盛綱(たいらのもりつな、生没年未詳)は平安時代末期の武将。平盛国の子、もしくは盛国の子盛俊の子と言われる。
盛国らと同様に平清盛に仕え、承安4年(1174年)には「盛国の別功の賞」をもって左兵衛尉に任官、安元元年(1175年)には内舎人正に任ぜられ、治承2年(1178年)には主馬頭を兼任した。降って治承4年(1180年)には左衛門尉の任にあったと『山槐記』に記されている。また讃岐守にも任じ、号として「高橋」を名乗ったという。
養和元年(1181年)に平家の侍大将の一人として墨俣川の戦いに参加。敵将の一人源義円を討ち取って名を挙げた。その後源義仲追討の戦いにも出陣したようであるが、その終焉の地については不明である。
[編集] 平盛綱(三郎兵衛尉)
平盛綱(たいらのもりつな、生没年未詳)は鎌倉時代初期の武将。系図上は平資盛の子とも孫ともされるが、確かな出自は不詳である。
鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え、侍所所司を務める。承久の乱や伊賀氏の乱の処理において実務能力を発揮し、文暦元年(1234年)には家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた。仁治3年(1242年)に出家して隠退。法名は盛阿。
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