長崎氏
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長崎氏(ながさきし)は、鎌倉時代の北条得宗家の被官。桓武平氏とされる。
平資盛の曾孫と称する平盛綱が北条得宗家の家令となり、伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県韮山町)の地を得て長崎氏を称したのに始まるという。しかし、盛綱が資盛の曾孫であるというのは信憑性に欠ける説であり、実は平姓関氏の流れであろう。また、後述の事情により、盛綱と頼綱の2代は長崎盛綱、長崎頼綱とは呼ばない。ただし、盛綱・頼綱父子は、後に内管領として権勢を振るう長崎高綱(円喜)・高資父子と同族であるため、便宜上長崎氏に含められることがある。
盛綱(通称は平新左衛門尉)は、北条泰時、経時、時頼の3代の得宗に仕えた。
盛綱の子の頼綱(通称は平〔新〕左衛門尉、平禅門など)も得宗北条時宗、貞時の家令(内管領)となり、1285年(弘安8年)幕府の有力御家人である安達泰盛を霜月騒動で滅ぼし幕府の実権を握ったが、1293年(永仁元年)貞時に襲撃されて自害した(平禅門の乱)。
その後、頼綱の甥(弟とも、従兄弟とも)にあたる長崎光綱(長崎太郎左衛門尉光綱)の子長崎高綱(円喜)とその子長崎高資の父子が内管領となって幕政の実権を握ったが、1333年(元弘3年/正慶2年)新田義貞に鎌倉を攻められて幕府が崩壊し、北条氏一門とともに鎌倉東勝寺で自害して滅亡した。
[編集] 盛綱、頼綱の苗字について
鎌倉時代は、姓に代わって苗字が一般化した時代であった。これは、鎌倉幕府草創の時に、初代将軍源頼朝が、自己の直属家臣である御家人に、支配者たる自己とその近親者と、被支配者たる御家人とを明確に区別するため、また、朝臣ではなく将軍の家臣であることを強く認識させるため、姓ではなく苗字を名乗るよう要求したためである(姓とは基本的に朝廷から与えられるものであり、苗字は将軍から与えられた領地の名称に発することが多い、ということに注意されたい)。この結果、例えば北条時宗が正式な名乗りである「平時宗」を用いるのは、官位を受ける時などの公式の場に限られることとなった。しかし、このことは北条氏の被官のような非御家人には求められてはいなかった。鎌倉時代を通じて、非御家人も姓ではなく例えば長崎氏や楠木氏といった苗字を名乗るようになっていくが、これは徐々に浸透して行ったのであり、苗字の由来となる要素(領地を与えられた、ある土地に移住した、一族の惣領が苗字を名乗った)がなければ、苗字を名乗らなかった(従って姓を名乗り続けた)ことは想像に難くない。
盛綱が長崎氏を称したとの説は近世の史料にあるのみであり、同時代の史料にはそのような記述はない。盛綱の子の頼綱についても同様である。長崎氏が長崎郷を領したのも、盛綱・頼綱よりも後の時代であると考えられている。よって、盛綱、頼綱と長崎という苗字とを結びつけるものはない。かといって、盛綱、頼綱が長崎とは別の苗字を名乗っていたという記録もない。盛綱、頼綱が生前に長崎氏を称したことがない以上、長崎盛綱、長崎頼綱という言い方は、一族の中で彼らよりも後の世代が長崎氏を称したことから遡ってつけた呼称ということになり、完全に誤りというわけではないが問題が残る。そこで現在は、盛綱、頼綱は本姓の平から、平盛綱、平頼綱と表記する場合が多い。これはもちろん、盛綱、頼綱が生きていた時代に平盛綱、平頼綱と呼ばれていたという意味ではない。
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