平親宗
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平 親宗(たいら の ちかむね、天養元年(1144年) - 正治元年7月17日(1199年8月10日))は平安時代末期の公家。平時信の次男。母は藤原家範の女。正二位、中納言。異母兄弟姉妹に平時子、平時忠、平滋子らがあり、子に平親国、平親長、平宗宣らがある。
平清盛の縁戚につながる一人でありながら、異母兄の時忠と不仲だったこともあり、平家の勢力拡大時においても一貫して後白河法皇の側にあった。このため、治承3年(1179年)における清盛のクーデターの際には、院の近臣の一人として参議の職を解かれている。
こうした経緯により、寿永2年(1183年)に平家一門が都落ちした際にも随行せず、そのまま都に止まった。平家滅亡後、源頼朝と源義経が対立を深めると、高階泰経、平知康らとともに義経支持派として頼朝から弾劾され、再び解官の憂き目に合っている。最終的には1199年に中納言に進み、これを極官として同年逝去。
平家一門の中では平重盛一家に近かったとされ、娘の一人は重盛の長男維盛の側室になっている。また別の娘は太政大臣西園寺公経との間に左大臣実雄を産んでいる。
日記として『親宗卿記』を書き遺している。