平通盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平 通盛(たいら の みちもり、仁平3年(1153年) - 寿永3年2月7日(1184年3月20日))は、平安時代末期の武将。
父は平教盛で、母は藤原資憲娘。妻は参議藤原憲方の娘小宰相。中宮亮・建礼門院別当・非参議従三位。越前三位と呼ばれた。
養和元年(1181年)8月、北陸道で発生した反平氏蜂起を鎮圧するために出兵。越前国、加賀国で在地武士の抵抗が激しく苦戦。9月には越中水津で源義仲配下の根井行親軍と合戦し破れる。同年11月帰洛。翌2年(1182年)4月、義仲追討軍に従軍。越前燧城の戦いで勝利を収めた。その後、平維盛、平行盛、平忠度は主力の7万を率いて加賀から越中へ進出、通盛は平知度と3万の兵を率いて能登の反乱鎮圧に向かう。しかし、主力軍が倶利伽羅峠の戦いで潰滅したため、撤退。義仲軍の追い打ちで北陸追討軍は潰滅し、京都の維持が難しくなり、都落ちをする。 寿永2年(1183年)備中水島の戦いに従軍。翌年の一ノ谷の戦いでは、弟の平教経、平業盛、侍大将の平盛俊らと奮戦。源氏方の木村成綱、玉井助景を討ち取るなど活躍したが敗北。自害しようとしたところを佐々木盛綱らに取り囲まれて討たれた。