平野長泰
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平野 長泰(ひらの ながやす、1559年(永禄2年)-1628年6月8日(寛永5年5月7日))は、安土桃山時代・江戸時代の武将。賤ヶ岳の七本槍の一人。平野長治の子。名は初め「長勝」。通称権平。遠江守。平野氏は、鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。一説には平野長治は舟橋宣賢の孫で、公家の舟橋家からの養子とする説がある。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。
本能寺の変の後、対立が激しくなった羽柴秀吉と柴田勝家が1583年(天正11年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)折に福島正則、片桐且元、長泰 ら七人が格別の働きをして「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)と称えられた。その後戦功を重ねて大和国十市郡田原本近隣七ヶ村における五千石の知行を秀吉から与えられた。
関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。大阪の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。
豊臣方に就こうとする気骨が災いして、七本槍の中で唯一大名になれなかったが、徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残った。
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