弘前大教授夫人殺し事件
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弘前大教授夫人殺し事件(ひろさきだいきょうじゅふじんごろしじけん)は昭和期日本で起こった冤罪事件である。別名を弘前事件と言う。
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[編集] 事件の経緯
1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人(当時30歳)が刃物で殺害された。
警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所にある家の男性(当時25歳)を8月22日に一旦別件で逮捕し、10月22日に殺人容疑で再逮捕した。男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに血痕が付着していた事などを証拠に起訴。
一審では無罪が言い渡されたが、検察側が控訴し、二審ではシャツの血痕の鑑定結果などから懲役15年の有罪判決が言い渡された。男性は上告したが、1953年に最高裁でも二審判決が支持されて懲役15年の刑が確定した。男性は1963年に仮出所した。
[編集] 冤罪の発覚
しかし1971年になって、真犯人が名乗り出てきた。真犯人は冤罪男性の友人で、三島由紀夫割腹自殺の影響を受けて名乗り出てきたという。その為再審請求がなされたが、1974年に請求は棄却された。しかし再度請求し、1976年に再審が開始された(血痕の鑑定人は1975年に死去。)。裁判では、シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造であると裁判所は判断した。1977年2月15日、発生から28年後、男性に無罪判決が言い渡された。
冤罪を受けた男性は那須与一の子孫であることを心の支えとし、年老いた母親や支援者の下、無罪を勝ち得ることが出来たとしている。真犯人に対しては恨みの気持ちはなく逆に、勇気を持って名乗り出てくれたことに感謝の意を表した。