後藤勇吉
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後藤勇吉(ごとう ゆうきち、1896年(明治29年)11月12日-1928年(昭和3年)2月29日) は日本初期の民間パイロット。宮崎県延岡市出身。国内第一号の一等操縦士、一等飛行士。
1924年(大正13年)、日本一周飛行(毎日新聞の企画で、7月23日から7月31日までかけて大阪-鹿児島-秋田-大阪4,395kmを飛行)などをした。 川西航空機系日本航空の運行責任者として、定期航空の推進を行った。
川西のK12長距離機「桜号」の太平洋横断飛行計画(実現せず)の操縦士監督に任命され、操縦士の訓練中に事故で死亡した。享年33。
延岡市の妙田緑地公園に後藤勇吉の銅像がある。また、出身校である旧・県立延岡中学校(現・宮崎県立延岡高等学校)にも銅像がある。
[編集] 関連事項
- 後藤勇吉 (小惑星) - 後藤にちなんで命名された