徐晃
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徐晃(じょこう、Xu Huang ?-227年)は、中国の魏の武将。字は公明。徐蓋の父、徐覇の祖父。河東郡楊県(現/山西省洪洞県南部)の出身。
[編集] 略要・人物
最初は後漢の車騎将軍だった楊奉の武将で官位は任騎都尉。しかし、楊奉と意見が適わずに対立したため、満寵の説得に応じて、曹操に帰順した。呂布討伐や官渡の戦い、赤壁の戦い、馬超討伐、関羽討伐など、曹操時代の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた。
同郷の関羽の軍勢に包囲された曹仁と于禁・龐悳の救援に趙儼と共に向かい、見事に関羽を撃退した。曹操は徐晃を褒め称え、「わしは三十年以上も兵を用い、古(いにしえ)の戦上手な将を数多く知っているが、このように敵包囲網に突撃した者はいなかった。しかも樊城における状況は、(戦国時代の)燕が斉の莒・即墨を包囲した時以上に困難なものであった。将軍の功績は(過去の名将である)孫武・司馬穰苴にも勝るものであろう」と語った。
また、この戦勝を祝い宴を催した時、曹操は徐晃に酒を勧めて、彼を労った。この時、他の軍勢も集結していて、多くの軍の兵卒たちは持ち場を離れて騒いだりしていたが、徐晃の軍だけは将兵が整然と陣に着いていて持ち場を離れる事が皆無だった。これを見た曹操はますます徐晃を篤く信頼し「徐晃には周亜夫(前漢の大将軍)の風格がある」と称えたと言う。
曹丕が魏王になると右将軍に昇進し、その後夏侯尚と共に上庸で劉備を打ち破った。 明帝(曹叡)の時代には呉の諸葛瑾を撃退し、二百戸を加増されて三千一百戸となった。
徐晃は張遼や張郃、于禁、楽進らと並ぶ魏の名将として活躍したが、功績を挙げても奢る素振りは見せず、部下には親身に接したために人望が厚かったといわれている。また、用兵においても間者等を用いた情報収集を重視し、常に敗れた時のことを予想してその対策を念頭に置いた堅実な戦いぶりを見せた。しかし、その一方で勝利を決定付ける好機と見ると、配下の兵士に食事の暇も与えないほどの猛烈な追撃を行うこともあったという。
彼は常に「昔の人はよく明君に出会えぬことを嘆いたものだが、わしは幸運にもその明君にお会いする事ができた。だから、功績をあげてこの幸運に答えなければならぬ。個人の功名など何ほどのこともない。」と言い最後まで徒党を組む事はしなかった。
227年に病死した。諡号は壮侯。享年は明らかではない。
正史を見る限り敗戦が一度も無く、三国時代を代表する名将の一人と言えよう。
『演義』では、「大斧」を愛用武器としていた。副将の王平と意見が適わず衝突したために、王平が裏切って蜀漢に寝返ったことに激怒(王平が最初魏に仕え、のち蜀に降伏したのは事実であるが、徐晃の副将であったという話は創作のようである)するなど、少々短気な性格も見せるが関羽を一騎打ちでも退けるなど魏屈指の勇将として描かれている。また、かつて蜀臣だった孟達が再び帰参する動きを見せたために、その討伐中に孟達が放った矢に額を貫かれて、戦死したことになっている。