官渡の戦い
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官渡の戦い(かんとのたたかい、中国語 官渡之戰 Guāndù zhī zhàn)は、中国後漢末期の200年に官渡(現在の河南省中牟の近く)に於いて曹操と袁紹との間に起きた戦い。赤壁の戦い・夷陵の戦いと共に『三国志』の時代の流れを決定付ける重要な戦いであった。
狭義では、官渡で行われた戦いのみを差すが、広義では、袁紹と曹操の一連の抗争を含む大きな戦いである。白馬の戦いを前哨戦とし、袁紹の元に居た劉備は、汝南方面で攪乱戦を起こすなど、中原一帯を巻き込んでいた。
[編集] 事前の経緯
当時は後漢皇帝は名前だけの物となり、各地で群雄が割拠する戦乱の世だった。次第に群雄たちが淘汰される中で勝ち残ってきたのが、曹操と袁紹である。
曹操は宦官の家系の出身と言うハンデを背負いながらも類まれなる才覚により頭角を現し、献帝を手中に収めたことで道義的な正当性を手にし、呂布・袁術・張繍といった者たちを下して河南から江蘇の長江以北にかけた地域を統一した。
一方、袁紹は四世三公と呼ばれる名門中の名門・汝南袁氏の頭領であり、その名の下に集まった人物たちを元手に青・冀・幽・并の四州(河北・山西・山東)を支配し、曹操との対立を深めていった。
199年には劉備が徐州にて曹操へ反乱を起こし、袁紹へと救援を求めてきたことがあった。この時に田豊はこの機会に曹操を滅ぼすべしと強く主張したが、袁紹は子供が病気だからと断った。この時、既に曹操は官渡に布陣していたのだが袁紹が動かないと見ると翌年に自ら出陣して劉備を追い散らし、敗れた劉備は袁紹の元に身を寄せ、劉備の家臣関羽は曹操の捕虜となり、曹操の客将として過ごすことになる。
[編集] 官渡の戦い
曹操が関羽を下した翌月、袁紹は自らの支配する地域に檄文(陳琳により書かれたもの)を出し、曹操との決戦を断行した。この時に田豊は「曹操は劉備を破って、許(許昌、許都。曹操の本拠地で献帝の所在地)は空城ではなくなりました。持久戦に持ち込むのに越したことはありません」と言って、自らの本拠地を守りながら曹操の後ろを撹乱させれば三年待たずして勝てると言ったが受け入れられず、元より仲の悪かった逢紀から讒言を受けて投獄されてしまった。
更に翌2月に顔良を派遣して白馬(黄河南岸)に布陣していた曹操軍の劉延を攻撃させた。この時に沮授が顔良を起用するのは良くないと諌めたが、袁紹は聞き入れなかった。
曹操側は荀攸の進言に従って、袁紹本陣を攻める振りをすることで袁紹軍を分散させることに成功し、孤立した顔良の軍に関羽・張遼を先陣として撃破した。顔良は関羽によって討ち取られた。
業を煮やした袁紹は自ら渡河し、曹操軍と南阪と言うところで対峙することになる。
袁紹は今度は文醜を持って曹操の陣を攻撃させるが、曹操は再び荀攸の進言に従って、輜重隊をおとりに使い、文醜軍の隊列が乱れた所で襲い掛かり、文醜を討ち取ることに成功する。なお、三国志演義では関羽が討ち取ったこととなっている。
この時点で両軍は一旦体勢を立て直し、曹操軍は官渡へ引き返して、袁紹は陽武(河南省原陽県)に軍を進めた。この時に沮授が「北(袁紹陣営)は数は多いが、勇猛さでは南(曹操陣営)に及びません。しかし食料の点では南は少なく、北に及ばない。南は速戦、北は持久戦が有利です」と説いたが、受け入れられなかった。
袁紹は曹操軍を攻めて、東西数十里に渡る陣を布いて少しずつ前進すると言う戦術で曹操の陣営を圧迫した。袁紹は城壁に土の山を築いたり、地下道を掘ることで城壁を越えようとしたが、曹操に押し返される。更にやぐらを築いて城内に矢を射掛けたが、曹操が作らせた発石車により破壊された。
戦況は持久戦の様相を呈し始め、曹操陣営の食料は日に日に少なくなっていった。弱気になった曹操は本拠地の留守をしていた荀彧に対して手紙を出して撤退したらどうかと相談したが、荀彧はこれを強く諌めて、必ず勝てると曹操を励ました(「荀彧伝」には曹操は引き返すことで袁紹軍をおびき寄せるつもりであったと書かれているが、当時の状況から考えてそれは考えにくく、英雄らしからぬ弱気を見せた曹操を弁護したものであろう)。
この時に南方の汝南に於いて曹操の形勢悪しと見た劉辟が曹操に対して反乱を起こし、袁紹はこれを味方につけるために劉備を派遣した。曹操は曹仁を派遣してこれを打ち破った。敗れた劉備は劉表の元に逃げ込み、その後しばらくは髀肉之嘆を囲うことになる。
その間に曹操軍の食糧不足は更に深刻なものとなっていた。その頃、袁紹陣営の許攸は袁紹に対して軽装兵を用いて許を襲撃することを説いたが受け入れられず、また家族が罪を犯して処刑されたことで袁紹に嫌気がさして曹操陣営に投降してきた。許攸は曹操に対して袁紹が運ばせていた食料隊を襲撃することを提案した。
曹操は即座に行動を起こし、自ら歩騎五千人を率いて烏巣にいた淳于瓊率いる食料隊を攻撃した。淳于瓊は敗れ、鼻を削がれて殺される。
食料が襲われたことを知った袁紹軍では郭図が「今、曹操の陣営は手薄だからこれを攻めれば勝てる」と言い、張郃は「敵陣は堅固なので勝てません。それよりも早く淳于瓊を救援するべきです」と言った。袁紹はこれに対して両方の策戦を採用すると言う優柔不断なことを行った。
その結果は両方の軍が敗退。曹操陣を襲いに行った張郃と高覧は曹操に降伏するという最悪の結果であった。これにより袁紹軍は崩壊、官渡の戦いは終わった。
戦術的に見れば、袁紹側は大兵力を有していながら決断力に欠け、戦力の逐次投入を行い、大兵力の利点をあまり生かすことができなかったこと、文醜が本来は曹操の隊を攻撃すべきはずであったところなのに、おとりの輜重隊に気をとられるなど指揮が徹底していなかったこと、兵糧の大規模な補給計画という軍事上の最高機密を曹操側にもらしてしまったこと、などが挙げられよう。
[編集] 官渡後
翌201年、袁紹の敗北を見た冀州の各地で反乱が多発するが、袁紹はこれを収め曹操と再び倉亭で戦い、八百騎余りの兵を連れて敗走するが失意のうちに翌年に病死する。
袁紹死後、かねてよりの懸案であった長子袁譚と三子袁尚との後継者争いが勃発。激しく争った結果、袁譚が敗れて曹操を頼り、曹操により袁尚が滅ぼされ、返す刀で袁譚も滅ぼされる。そして曹操は河北のほとんどを支配する当時最大勢力へとのし上がる。
見てきたように袁紹にも勝利のチャンスはいくらもあった。しかしそのことごとくを逃したのは袁紹の度量の問題であり、戦前に郭嘉が評した「袁紹の十の敗因、曹操の十の勝因」がそのまま当てはまる。袁紹は敗れて逃げ帰る際に「田豊がいればこんなことにはならなかったであろうに」と慨嘆したが、その後で逢紀から「田豊は敗北したことで自分の予想通りだと笑っております」と讒言を受けて、田豊をやつあたり処刑している。
なお官渡の兵力について『三国志』の陳寿が書いた本文部分には袁紹軍十余万、曹操軍一万弱と書かれているが、これに対して裴松之は疑問の声を上げている。その理由として
- 曹操が旗揚げ時に既に五千の兵を持ち、その後に旧黄巾軍三十万を降している。それからすると一万とは少なすぎる。
- 袁紹の軍十万に対して一万で数ヶ月に及んで対峙できるものであろうか?
- 袁紹軍が崩壊した後に、袁紹軍の兵士八万を殺したとあるが、一万足らずの兵士がいかに混乱していたとはいえ八万人を殺せるとは思えない。
などを挙げている。
また、より本拠地に近い曹操軍が一万の兵士が食べる食料を十分に用意できず、袁紹軍が食糧不足の心配をしなかったと言うのも疑問である。官渡の戦いの兵力は曹操が劣勢であったのは間違いないが、十倍の兵力と言うのには疑問が残る。これはおそらく、曹操の軍略が優れていたということを誇張するためにこのような記述がなされたのではないかとの推測も可能である(勝者を劣勢に見立てることはよく見られることである)。