徳丸ヶ原
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徳丸ヶ原(とくまるがはら)はほぼ現在の東京都板橋区高島平全域に相当する江戸幕府の天領、及び地名。現在板橋区内の住所表記には「徳丸ヶ原」は存在しないが、新河岸川南岸に板橋区立徳丸ヶ原公園がある。
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[編集] 地理
ほぼ現在の高島平に相当する地域であるが、板橋区新河岸も含む。即ち、荒川以南、白子川以東、中山道以西、西台・徳丸以北の全域である。
土地はきわめて平坦であるが、反面ほとんど湿地帯であったようで、長年にわたりこの地域が経済活動に寄与することは無かった。
[編集] 歴史
徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあり、古くは名族豊島氏の支配下にあったが、その後千葉氏の支配下に置かれた。千葉氏と豊島氏の争いが太田道灌の援助を受けた千葉氏の勝利に帰して後は、間接的に後北条氏の管理下におかれたようである。
江戸時代は志村が原に続く広大な平原として幕府の鷹狩場に指定されていた。徳丸のふもとに広がる荒原として「徳丸が原」と称された。その後一般に「徳丸ヶ原」と表記されたが、公式文書には「徳丸原」と記されたようである。そもそもが荒川の氾濫原であり、腰までつかるような湿地帯と灌木が点在する荒原であった。このことから、耕作にも適さず、大都市にも隣接していない、また江戸から見ると荒川という天然の堀の内側にあるので、防衛拠点としても特に重視されない土地であった。このことから土地の利用価値としては鷹狩場、錬兵場としての価値しかなかったのである。よって、江戸末期以前まではこの地が注目されることは無かった。
高島秋帆による砲術訓練が行われたことから、以降全国的に「徳丸ヶ原」の名称が定着する。明治に入り、豊富な荒川の水資源を頼りに耕地化が進み、「徳丸田んぼ」と称された。しかし、相変わらずの湿地帯であるため水田としての生産力は低く、田船や田下駄を履いても尚作業に難渋した。昭和に入って以降もしばしば荒川の洪水被害にあい、昭和30年代までこの状況は続いた。
[編集] 転換点
23区内で最後まで残った水田地帯も、付近の住宅化による家庭排水の流入等により耕作に不適な状況となってきた。1956年に日本住宅公団(後の独立行政法人都市再生機構)が大規模団地・徳丸ヶ原ニュータウン(後の高島平団地)を計画し、土地区画整理事業が施行された。従前の居住者が僅少だったことから順調に進み、また都営地下鉄6号線(後の都営三田線)が建設された。1969年には高島秋帆にちなんで一帯を高島平と改称し、現在に至る。結果として地名としての徳丸ヶ原は失われた。
[編集] 関連項目
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