徳川綱條
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徳川 綱條(とくがわ つなえだ、明暦2年8月26日(1656年10月13日) - 享保3年9月11日(1718年10月4日))は、江戸時代中期の大名。常陸国水戸藩の第3代藩主。父は讃岐国高松藩主・松平頼重(綱條は次男)。母は頼重の正室で土井利勝の娘。号は鳳山。正室は今出川公規の娘。
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[編集] 生涯
[編集] 幼年期
寛文11年(1671年)6月、叔父徳川光圀の養嗣子として迎えられた。綱條の父は光圀の兄・松平頼重であるから、綱條は光圀の甥に当たる。光圀に子が無かったから迎えられたと思われがちだが、実はそうではない。養父・光圀には側室・玉井徳之助の娘との間に鶴丸という実子がいたのである。
それなのになぜ養嗣子として他家から迎えたのかと言えば、光圀の幼少時代が原因だった。頼房は藩士・三木之次に光圀を預け、光圀は之次の子として育てられていたため、光圀は6歳になるまで父が初代藩主・徳川頼房ということを知らなかった。光圀は自分の本当の父が頼房と知った後も、育ての父である之次を実の父のように慕っていたという。どうも光圀は、はじめから藩主として決まっている者、すなわち世襲で決まった嫡子を藩主として据えるよりは、他家から養子を迎えたほうの子が色々な識見もあってよいと考えていたらしい。学問好きな光圀は、史記の「伯夷伝」の影響もあって、綱條を養子として迎えることを決意したという。ちなみに、鶴丸は頼重の養嗣子として出されている(後に高松藩2代藩主松平頼常となる)。言わば、兄弟の子のトレードであった(なお綱條に先立って頼重の長男・徳川綱方が光圀の養嗣子に迎えられたが、早世していた)。
[編集] 水戸藩三代目当主に
元禄3年(1690年)、光圀が常陸国西山の西山に隠居したため、その後を継いで藩主となった。
この頃、水戸藩は多額の借金を抱えて財政が破綻寸前となっていた。ちなみに水戸藩は藩祖・頼房の代は25万石、光圀の代には28万石に加増されたが、綱條の時代には35万石に加増されていた。だからと言って財政が良かったわけではない。むしろ、財政は窮乏して藩士の上納金でかろうじてやりくりする自転車操業を行なっていたのだ。綱條はそのため、松波勘十郎に改革を任せた。この勘十郎。実は美濃国出身の浪人であるが、経済の才能に優れていたため大和国郡山藩や備後国三次藩から招かれて、改革をいずれも成功させていた人物である。綱條も、それを見込んで招いたのであろう。招かれた勘十郎は、家老の清水清信と協力して藩政改革に取り組んだ。財政再建のために倹約令や経費節減、人員削減、不必要な組織の改廃などを行なった。特に人員削減では武士の中でも低い身分の郷士を取り立ててそれまでの代官などを半分に削減、さらに百姓などまでも取り立てて代官などに取り立てられた者もいる。これは、これまで不正を行なっていた者の処罰的意味と領民から支持を得るために行なったことである。また、商業においてはこれまで城下の商業を行なうことは水戸藩出身の商人だけしか許されていなかったが、勘十郎はこれを規制緩和して他藩の商人も招き入れた。
確かにこれにより商業もさらに潤ったが、これは商品経済化の促進を招くことにもなった。さらに大運河工事も行なう。勘十郎は運河による江戸との交易で財政を潤わせようとしたらしい。これにより紅葉運河が築かれ、確かに藩の財政は潤った。ところが、この工事にかかった人員が凄まじいものであったため、領民は苦しめられた。また、厳しい年貢増徴政策も行なわれ、領民は大いに苦しんだという。これら一連の改革を、「宝永の新法」という。
[編集] 改革失敗から晩年
ところが、厳しい年貢増徴政策や運河建設による労役は領民の憤激を生んだ。そして遂に領民たちは清信と勘十郎の罷免と新法の全廃を求めて綱條に直訴したのである。ここにいたって綱條も騒ぎが大きくなる前にと勘十郎と清信を罷免する。そして特に領民から悪人とまで名指しされていた勘十郎に対しては獄中にぶち込んで正徳元年(1711年)に獄死させている。しかし綱條は最後まで勘十郎の死を惜しんだという。現在、茨城県茨城町から鉾田市にかけて、紅葉運河の一部として「勘十郎堀」が残っている。
享保元年(1716年)、将軍・徳川家継が病に倒れると、次の将軍候補の一人となったが、将軍に選ばれたのは紀州藩主の徳川吉宗であった。最晩年は『礼儀類典』を朝廷に献上し、さらに『鳳山文稿』、『鳳山詠草』などの著作も多く残した。ちなみに、養父の光圀が編纂した歴史書の名を『大日本史』と名づけたのは綱條である。
享保3年(1718年)、63歳で死去。綱條の嫡男の徳川吉孚は父に先立って早世していたため、後を養嗣子の徳川宗堯(讃岐藩主・松平頼豊の長男。綱條の甥)が継いだ。
勘十郎の行なった新法改革は、領民にとっては苛酷であったが、財政再建には成功をいくらかは収めている。また、綱條は政治よりも文学、特に著作で高く評価されている人物である。
[編集] 官職位階履歴
※日付=明治5年12月2日までは旧暦
- 1670年(寛文10)6月6日、藩主後継者となる。従五位上采女正。12月25日、元服し、将軍徳川家綱の一字を賜り、綱條と名乗る。正四位下左近衛権少将に昇叙兼任。
- 1690年(元禄3)10月14日、常陸国水戸28万石藩主となる。12月25日、右近衛権中将に転任する。
- 1693年(元禄6)12月1日、従三位参議に昇叙補任。
- 1701年(元禄14)5月15日、7万石加増。
- 1705年(宝永2)12月2日、正三位権中納言に昇叙転任する。
- 1928年(昭和3)11月10日、贈従二位。
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