忌部子人
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忌部子人(いんべのこびと、生年不明 - 養老3年(719年)7月)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は「いみべ」「いむべ」とも読む。名は「子首」「首」とも書き、「こおびと」、「こびと」、「おびと」とも読む。旧仮名遣いで読み方は変わらない。姓(カバネ)は首、後に連、さらに後に宿禰。
672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)側について倭京を守備した。682年に帝紀と上古諸事の編纂の一員となり、中臣大島とともに少なくとも編纂初期の執筆の中心になった。これは死後の720年に『日本書紀』として完成した。文武天皇の代に五位に昇進し、702年に伊勢神宮に幣帛を捧げ、710年には出雲守になった。従四位下。
[編集] 事績
672年の壬申の乱のとき、大海人皇子に味方して倭(大和国)で挙兵した大伴吹負は、まず倭京を奪い、ついで北に軍を進めた。倭京とは、当時大津に置かれた京に対し、倭(やまと)にあった飛鳥の古い京のことである。進軍の途中、7月3日に、荒田尾赤麻呂が吹負に本営の古京(倭京)の守りを固めるべきだと進言した。そこで吹負は赤麻呂と忌部首子人を遣わして、古京を守らせた。赤麻呂らは、道路の橋板を取り壊して楯に作りかえ、交差点に立てておいた。4日に吹負の軍を破って南に進んだ大野果安は、八口に至って高所から京を遠望した。果安は街区ごとに楯か並べられているのをみて、伏兵を疑って引き上げた。『日本書紀』には他に子人の活躍は見えない。
天武天皇9年(681年)1月8日に、忌部首首は、連の姓を与えられた。首は弟の色弗(色夫知)とともに喜んで天皇を拝した。
天武天皇10年(682年)3月17日に、天皇は大安殿で帝紀と上古の諸事を記し定めることを命じた。6人の皇族と6人の他の官人の中に、小錦中忌部連首の名がある。忌部首と中臣大島は自ら筆をとって記録したと特に記され、中心執筆者であったことがわかる。これが『日本書紀』編纂の着手を意味すると考えられている。
天武天皇13年(684年)12月2日に、忌部連など50の連姓の氏が宿禰の姓を与えられた。
大宝2年(702年)3月8日に従五位下の忌部宿禰子首は、従五位上に進み、これ以後官位を進めていった。慶雲元年(704年)11月8日、従五位上忌部宿禰子首は、伊勢太神宮(伊勢神宮)に遣わされ、幣帛、鳳凰鏡、窠子錦を供えた。和銅3年(710年)3月13日に、正五位下忌部宿禰子首は出雲守になった。
養老3年(719年)閏7月15日に、散位従四位上の忌部宿禰子人は死んだ。『日本書紀』完成を舎人親王が報告したのは、翌年5月21日であった。
[編集] 年譜
- 天武天皇元年(672年)7月3日 - 忌部首子人が荒田尾赤麻呂とともに古京を守備した。
- 天武天皇9年(681年)1月8日 - 忌部首首が連の姓を与えられた。
- 天武天皇10年(682年)3月17日 - 忌部連首らが帝紀と上古の諸事の編纂を命じられた。冠位は小錦中。
- 天武天皇13年(684年)12月2日 - 忌部連が宿禰の姓になった。
- 大宝2年(702年)3月8日 - 忌部宿禰子首が従五位下から従五位上に進んだ。
- 慶雲元年(704年)11月8日 - 忌部宿禰子首が伊勢神宮に幣帛などを捧げた。
- 和銅3年(710年)3月13日 - 忌部宿禰子首が出雲守に任じられた。官位は正五位下。
- 和銅4年(711年)4月7日 - 忌部宿禰子首が正五位上に進んだ。
- 和銅7年(714年)1月5日 - 忌部宿禰子首が従四位下に進んだ。
- 養老2年(718年)1月5日 - 忌部宿禰子人が従四位上に進んだ。
- 養老3年(719年)閏7月15日 - 散位従四位上忌部宿禰子人が死んだ。