恵公 (晋)
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恵公(けいこう、? - 紀元前637年10月)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前650年 - 紀元前637年)。姓は姫、諱は夷吾。献公の第三子。
幼少時から機知に富むといわれ、太子申生の死後は重耳とともに時期君主の候補の一人であったが、驪姫が奚斉を産むと屈邑に封ぜられる。 驪姫によって献公暗殺の疑いをかけられると郤芮の献言に従って梁に亡命した。 里克ら晋国内の大夫たちによって奚斉が殺害されると秦の穆公の後援を得て帰国し、恵公となる。
帰国し君主となった恵公は声明のある重耳の帰国を恐れて刺客を放ち、自分に従わなかったり、奚斉を殺害し恵公を迎え入れた里克ら大夫たちを厳しく弾圧した。
また晋では連年凶作が続いたので隣国の秦に支援を求めた。 秦の穆公は快くこれに応じ、大量の食料を河に流して晋に届けた。 次の年は秦が凶作になったので穆公はその年は豊作だった晋に支援を求めた。 これを聞いた恵公は、あろうことか秦を叩きのめすのは今だと喜び秦に出兵した。 穆公は怒り、秦と晋は韓原で激突することになった。 戦いは秦の圧勝に終わり、恵公は捕虜となった。 穆公は恵公を秦につれて帰り祖先の霊に犠牲として奉げようとしたが、穆公の妃は晋献公の娘で恵公の姉だったので、穆公に身を挺して命乞いをした。 また、晋の大夫たちも大勢が恵公を助命するように懇願した。 家臣たちは恵公を殺すことを進言したが、穆公は恵公を助けた。 しかし、太子圉を人質としてとり、以降晋は秦に従属する形をとることになった。
その後、紀元前637年10月に没した。
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