穆公 (秦)
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穆公(ぼくこう ? - 紀元前621年 在位紀元前659年 - 紀元前621年)は中国春秋時代の秦の九代目君主。姓は嬴(えい)。諱は任好(じんこう)。繆公とも。
[編集] 略歴
徳公(六代目)の子で成公(八代目)の弟。兄弟相続により秦公となる。晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚を召抱えて、以後は百里奚に国政を任せるようになった。
紀元前651年に隣国晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄重耳の方を人格的に好んでいたが、重耳が辞退したことと、英邁の誉れ高い重耳に比べて出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に夷吾は穆公に礼として領土の割譲を約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、悪政を行った。
紀元前647年、晋は不作になり、食料が不足したために秦へ援助を要請した。家臣たちは忘恩の恵公に何で食料を送ってやる必要があるかと反対したが、穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い。」と言って晋へ大量に食料を輸出した。その翌年に今度は秦が不作となった。穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食料を送らず、あろう事か食料が無くて秦は弱っているだろうと秦に攻め込んできた。これにさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し、大勝して、恵公を捕虜とした。凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、妻(恵公の姉)に止められた。そこで恵公の太子圉を人質にして、恵公の帰国を許した。
紀元前638年、晋で恵公が重病となると圉は晋に逃げ帰った。度々の背信に怒った穆公は楚にいた重耳を迎え入れて、共に兵を出して重耳を文公とした。
紀元前624年、文公死後の晋を討ってこれを大破し、西戎を討って西戎の覇者と認められた。
紀元前621年、死去する。この時に家臣177名が殉死した。この殉死を防ぐために兵馬俑を作ることになったと史記に記されている。ただ、主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、国際政治の表舞台から遠ざかることとなる。
[編集] 評価
穆公は春秋五覇の一人に数えられる事もある。実績は申し分ないが、会盟(国際会議)を主導した事は無いので次点と言う所だろうか。
また、百里奚や蹇叔、由余等の異邦の異才を登用して国力を増強させた事は、はるか後の商鞅や張儀、范雎等の異国の異才達による秦の天下統一への道筋の先鞭ともなった。