斯波義達
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斯波 義達(しば よしたつ、? - 大永元年(1521年)11月?)は戦国時代 の守護大名。斯波義寛の子。斯波義廉の孫または息子という説もあるが、義廉の係累であれば、義寛から尾張国守護職を継承する際、問題となった筈であり、大きな波乱もなく守護職に就任したことから、斯波義敏の係累に属すると考えた方が妥当と思われる。官位履歴は、従五位下から従四位下。左兵衛佐また、治部大輔。名は「よしみち」と読む説がある(「よしみち」と呼んだ場合、織田達定は「おだみちさだ」、織田達勝は「おだみちかつ」となる)。後に「義淳(または義敦)」と改名したといわれるが、義達と義淳は別人という説もある。没年も異説がある。
斯波氏は戦国時代に入ると徐々に衰退していったが、それでも尾張国や遠江国など、まだ数ヶ国を支配する大守護大名であった。しかしその支配領国のひとつである遠州に駿河から今川氏親が侵攻して来る。これに対抗して義達は1510年から今川軍と戦うが、次第に劣勢に追い込まれてゆく。1513年、反攻を図って大河内貞綱と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫し、1515年8月に今川軍と再度戦ってまた大敗したうえ、自身も捕虜となってしまったのである。氏親は剃髪させて臣従を誓わせることで、尾張に帰還することを許している。義達は失意のうちに1521年に死去し、後を子の斯波義統が継いだ。
義達自身は決して無能と言うわけではなかったが、彼が捕虜となったことで斯波氏の勢威は地に落ち、さらに衰退が促進されたのである。