新納忠勝
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新納 忠勝(にいろ ただかつ、生没年不詳)は、室町時代後期の薩摩の人。薩摩守護島津氏の一族である新納氏8代当主。父は7代忠武。官は近江守。子に忠茂(8代)。
新納氏8代当主。7代忠武の子。大隅志布志領主。父の代から周囲の豪族と対立しつつ、新納氏の領土を広げていった。最盛期には本領の志布志に加え、財部・大崎・末吉などを領していた。
享禄元年(1528年)、日向伊東氏が南進してくると冷水原で交戦、忠勝は都城の北郷忠相に救援を求める。忠勝を快く思っていなかった忠相は逆に伊東氏と手を組み忠勝を攻撃、忠勝は敗走している。その後も伊東氏は日向南部への侵攻を繰り返す。豊州家島津氏・北郷氏・北原氏などの諸豪族は連合を組んで伊東氏に対抗したが、忠勝は新納家の勢力拡大を図っていた。
島津宗家で島津忠良・貴久親子と勝久・実久の対立が起きると、実久は日向南部の諸豪族を味方につけ忠良・貴久に対抗しようとした。実久は忠勝の跡を継いだ忠茂も誘ったが、忠勝が実久側についた豊州家の島津忠朝や北郷忠相を嫌っていたためこれを拒否。そのため天文7年(1538年)、島津忠朝・北郷忠相・肝付兼続らに攻撃される。新納氏の諸城は次々と陥落したため、忠良・貴久の援軍を得られぬままに忠勝は降伏した。忠茂は伊東氏を頼って佐土原へ亡命し、忠勝は次男の忠常とともに島津忠朝の元に身を寄せた。こうして新納氏の所領は豊州家・北郷氏によって分割され、新納本家は没落する。
後に島津家家臣として活躍する新納忠元・旅庵は新納氏の庶流である。また新納本家もその後島津家に使え、江戸時代までその血脈を伝えている。