日向国分寺
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日向国分寺(ひゅうがこくぶんじ)とは日向国(現在の宮崎県)に建立された国分寺で、西都市大字三宅に位置する。
[編集] 概要
日向国分寺の建立時期については記録が残っていないため不明だが、『続日本紀』の天平勝宝8歳(756年)12月20日の条に、越後・丹波をはじめ日向など26か国が記載されていることから、国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられた741年から756年までの16年間に建立されたと考えられる。
国分寺・国分尼寺は国府の近くに置かれるのが通例であるが、日向国分寺の場合は少々距離がある。1948年に日向考古調査団、1961年及び1989年に宮崎県教育委員会によって確認調査が実施された。その際、僧房跡と推定される遺構が確認された。しかし、主要伽藍配置については不明であった。その後、1995年から西都市教育委員会によって実施された確認調査によって、金堂のものと推定される掘込地業跡や中門跡、さらに、回廊跡とその外側に巡らされていたと推定される溝が検出され、主要伽藍配置についてわずかではあるが判明した。
日向国分尼寺跡は、日向国分寺から北方に約600m、建設工事の際に大量の瓦が出土したことから、現在の宮崎県立妻高等学校の敷地内が推定地となっている。
なお、天明8年(1788年)には、遊行僧として全国行脚の途中であった木喰が日向国分寺を訪れた。木喰が訪れた当時、他の国分寺の例に漏れず日向国分寺も衰退していたが、地元民に乞われて住職した。翌年正月に国分寺が焼失したため、再建に尽力した。この際、仏像(五智如来像)を作像した。その後、廃仏毀釈の際に日向国分寺も廃寺となり、取り壊されたが、五智如来像は地元の信仰者の手により保護された。その後再建されたが、戦後まもなく台風のため倒壊した。再度再建されたが、五智如来像を安置するための施設(木喰五智館)が建立された際に取り壊された。