日本積善銀行
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日本積善銀行(にほんせきぜんぎんこう)は、1922年(大正11年)に経営者の乱脈経営が原因で破綻した京都の銀行。これが契機になり、多くの銀行で取り付け騒ぎに発展し、休業、破綻が相次いだ。これら一連の流れは「積善銀行事件」と呼ばれ、銀行のリスク管理の教訓となっている。
[編集] 沿革
- 1893年(明治26年)5月-京都銀行を母体に京都貯蔵銀行が設立
- 1916年(大正5年)6月-大正貯金銀行を合併し、日本貯蔵銀行に改称
- 1922年(大正11年)1月-貯蓄銀行法施行に伴い普通銀行に転換、日本積善銀行に改称し、資本金を500万円に増資
- 1922年(大正11年)11月-臨時休業
- 1922年(大正11年)12月-破産
[編集] 破綻の原因
当行は、大相場師として有名であった高倉藤平の養子であり、藤平の跡を継いで堂島米穀取引所理事長でもあった常務の高倉為三が実質的に所有、支配していた。高倉為三は、経営困難に陥っていた自己の経営する関係会社に投融資を実施し、その結果として、破綻に陥った。