日東科学教材
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日東科学教材株式会社(にっとうかがくきょうざいかぶしきがいしゃ)とは、1957年に創業した日本の模型製造会社である。所在地は千葉県佐倉市大作1丁目3番22号。
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[編集] 概略
1957年に、学校用教材メーカーとして執行松男、城島貞雄の二人が興した会社が日東科学教材社(以下ニットー)である。主に学校へのセールス販売をメインにしていたが、後に小売店を開き学校教材を販売、教材の一つとして取り扱った「プラモデル」の好調な売れ行きに模型メーカーへの転業を決意し、1959年に法人化、ニットー初のプラモデルが金型メーカーとの折衝など紆余曲折を経て1961年、MEGURO 500cc白バイが100円で発売され、好調な売れ行きを記録する。その後企画した商品は出せば売れる「プラモデル第一次ブーム」に乗り、ニットーの商品はモデルカー・戦車・版権キャラクターモデル(ガメラ・ガッパシリーズ)、扇風機模型など多彩に渡るラインアップを誇るメーカーに成長していく。1970年代のミニタリーブーム時には他社との競合を避け1/76スケールAFV戦車模型・ジオラマセットなどシリーズ化。1976年に販売した連載漫画サーキットの狼シリーズのスーパーカープラモデルを商品化で大ヒットとなり、スーパーカーブームを象徴する商品となる。1985年に経営不振の為、解散・廃業となったが1990年代後半再建され、MA.Kシリーズをメインに製造・販売を行っている。
[編集] スーパーカープラモブームを生んだ・サーキットの狼
'70年代半ば、1/24シリーズで発売されていたロータス・ヨーロッパの売り上げが急に伸びた。これは池沢さとしの連載漫画サーキットの狼の主人公の愛車だったことが原因と判り、ニットーでは版権を取って作中登場するランボルギーニカウンタックLP400、デトマソパンテーラGTSなどを1/28スケールで商品化、(全29種類)スーパーカーブーム時のピーク時には月産200万個を越えるヒットを記録した。精密さより「走らせて遊ぶ」作り易い低年齢向け仕様だったのもヒットの要因の一つであった。パーツ数は少なく、ワイパー・バンパーはボディと一体成形。クリアーパーツや、モーター(FA-130)・デカールも付属「単三電池は別売り」などで手頃な400円だった。このシリーズのスーパーカーは殆どが共通の上げ底シャーシーで作られており、後に金型が台湾に渡り、ニットーの古い戦車モデルを販売していたブルータンクのブランドで販売された。
- ※連載漫画サーキットの狼についての詳細は、別途のページ→サーキットの狼 をご覧下さい。
[編集] 模型雑誌の企画から生まれた S.F.3.D
1982年、ガンプラブームが続く中、HobbyJAPAN誌に横山宏がメカデザイン・フルスクラッチ作品担当、編集者・市村弘がサイドストーリーを考案・構成して連載されていたフォトストーリ「S.F.3.D ORIGINAL」が人気となり、当時の日東科学が製品化した。商品化に対して横山宏が全面監修、デザイナー今井邦孝がパッケージデザイン担当し、当時のアニメプラモ全盛の中にあって、ミリタリーテイスト溢れる・異色作のハイセンスプラモデルが誕生する。 1984年、S.F.3.D ORIGINALシナリオ担当の市村弘が、HJ誌を退社に伴う連載内容の迷走化・パワーダウンでプラモデルの販売不振を招き、製造元の日東科学も会社が火災・多額を投資した金型開発コストに耐え切れず1985年解散・廃業。その後のS.F.3.D ORIGINALを巡る裁判の影響で長い間、絶版となった。
[編集] 日東再建・MA.K
1994年に日東科学教材社は再建され、1998年、S.F.3.D ORIGINAL裁判の問題が解決し、モデルグラフィックス誌にて改称したマシーネンクリーガー「MA.K」として掲載・再スタートを図り、日東科学の社長が売却せずに、手元に残した金型を使用したMA.Kシリーズとして製造・販売される事となる。
- ※マシーネンクリーガー「MA.K」についての詳細は別途のページ→マシーネンクリーガー をご覧下さい。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 日本プラモデル興亡史 -わたしの模型人生- 井田博 著、文春ネスコ発行 ISBN 4890361871