日隈城
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日隈城(ひのくまじょう)は大分県日田市亀山町(きざんまち)にあった平山城。
[編集] 概要
築城年1594~1616? 創建:宮木豊盛 修築:毛利高政 別名:隈城、雅称:亀翁城。
南西は表、東が裏であるといわれる。表に三隈川その支流である小股川が裏に流れ囲み堀の役割を担う。城郭の形状は一二三段状の梯郭式の平山城。山頂の本丸から段状に二の丸、三の丸。大手門下に丹後丸、東側に馬責場(馬場)という曲輪構成であったといわれる。
[編集] 沿革
安土桃山時代の文禄元年(1592年)蔵入地(豊臣政権下の直轄地)の代官として日田に入封されてきた宮城豊盛によって築かれた。田島村(現:日田市田島町大原神社、若しくは日田市刃連町会所神社付近)より、商家や市を竹田村(日田市隈町付近)に移し、城下町とした。
その後、慶長元年(1596年)に毛利高政が2万石(6万石とも)で移封されると、五重天守や三重月見櫓などが増築され城下には二重の堀と土塁が廻らされた。しかし1600年の関ヶ原の戦いに際して、中津領主であった黒田如水が、重臣の栗山利安を日田に送り込んで和議を図った。その年に毛利高政は日隈城を引き渡し、一時栗山氏が日田郡を治めることとなった。
1601年、小川光氏が月隈山に丸山城を築くと、栗山氏は移封され、城は再び毛利高政の預かりとなり、城代に家老毛利隼人を送るが、僅か数年で佐伯に移封となり、城は小川氏の預かりとなる。
元和2年(1616年)以降、江戸幕府発布の一国破城令により廃城となり、寛政年間に破城されたといわれるが、松平直矩時代の日田陣屋役宅増設の時貞享元年(1683年)、「永山、隈居城・・・」と城としての残存を伺わせる記述もあるため、実際の破城の経緯は詳らかでない。
現在は大手門枡形の石垣がわずかに残るのみで、詳細な遺構は不明。
亀山公園として整備されている。
[編集] 関連項目
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