永山城
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永山城(ながやまじょう)は大分県日田市市街地北、月隈山にある城跡。別称:丸山城(※月隈城は誤称)。
[編集] 沿革
1601年に小川壱岐守光氏が丸山城と称して築城したという。南の日隈城下、隈町と隣接して丸山町(後の豆田町)を開く。
1616年に譜代大名石川主殿守忠総が美濃大垣城から移封。丸山城を改築し永山城と改める。このとき城下であった丸山町を豆田町に改名した。
寛永16年(1639)小川藤左衛門正長・小川九左衛門氏行両人が初代代官となり、永山城を廃城として麓に日田陣屋(日田代官所)を築き日田郡を治める。
寛文5年~6年(1665~1666)までの間、細川越中守綱利が入封され、堀(肥後殿堀)を造成する。
貞享3年(1686)代官小川藤左衛門正辰のより藩屏が廃され幕府直轄領となり、明和4年(1767)代官揖斐十太夫政俊の時西国筋郡代役所に任ぜられ日田陣屋は「永山布政所」と称する。
1682年~1686年までは松平直矩が七万石で入封するものの再び西国筋郡代役所に任ぜられ、幕末から明治維新の動乱のさなか幕府最後の西国筋郡代の窪田鎮勝が幕府歩兵部隊の制勝隊を解散するまで西国筋郡代役所であった。
後に、日田県知事松方助左衛門正義(後の総理大臣)によって旧三の丸に知事官邸と日田県庁舎が設けられ大分県に編入されるまで政治の場とされた。日田の大分県編入後、旧三の丸の半分が日田山林学校(現在県立日田林工高等学校)、半分が日田区裁判所となり裁判所移転後に月隈公園として整備され城山の石垣や水堀の一部などは多少残るも、陣屋跡(大手門堀沿い)は住宅地となって遺構なし。