天守
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天守(てんしゅ)とは日本の戦国時代以降城の中心的存在となった建造物をいう。殿主、殿守、天主などの字も当てられる。明治時代以降、天守閣(てんしゅかく)とも呼称されるようになった。
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[編集] 概略
起源は城主の館が発展したものと、物見櫓が高層化したものが折衷したものと考えられる。名前の起こりは殿主、殿守から由来すると考えられる。
初期の頃は物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったが、織田信長の近畿平定の頃からは遠方からでも見望出来る華麗な権力を象徴する建造物という色彩が濃くなっていった。
[編集] 起源
天守の初見は天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条に見られる摂津国伊丹城(兵庫県伊丹市)のものが挙げられる。しかしこれは城の中心的存在として御殿に望楼を載せたような形体であったと考えられている。
[編集] 発展
一般的に今日見られる本格的天守(五重以上のもの)の最初のものとされているのは織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城(滋賀県安土町)の天主であるといわれる。また松永久秀が永禄年間(1558年 - 1569年)に大和国に築いた多聞山城(奈良県奈良市)の四層の櫓が初見であるとの説もある。
その後、派手好みの豊臣秀吉は大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守を造営すると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。この頃までの城の外壁は黒漆若しくは柿渋塗りの下見板等の板張りが主であったが、江戸時代になると白漆喰塗籠の外壁も登場した。また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清・岡野又右衛門などが挙げられる。 豊臣政権が衰退し始めると徳川家康の下、徳川名古屋城を始めに諸大名が姫路城などの豊臣大坂城を越える巨大かつ壮麗な天守を造営していくが三代徳川家光の武家諸法度の発布により「天守」と付く高層の天守建築は原則造られなくなる。
[編集] 終焉
元和元年(1615年)徳川幕府による一国一城令により幕府の許可なく新たな築城、城の改修・補修が出来なくなり、また3層以上の天守に相当するものを新たに造営することが禁じられた。このためこれ以降に建てられたものには、幕府にはばかって、三重櫓、御三階(おさんがい)などと呼ばれることが多くなった。
江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化していったため、天守の役目も終わり、また、城は次第に御殿や二の丸・三の丸が拡充されていった。
[編集] 天守のない城
天守は必要無しとの判断から当初より天守台・天守の造営がなされなかった城郭がある。また、江戸期になると天守台はあるがその上に天守の造営されていない城郭が見られた。
江戸期、天守台と天守が造営されなかったのには、次の四つの場合がある。
- 天守はあったが焼失・倒壊した後、象徴としての役割を終えたとし、造営の必要なしと判断されたケース(江戸城、大坂城など)。江戸城では、4代将軍・徳川家綱の時代の明暦3年(1657年)明暦の大火で本丸が焼失し同時に天守も焼失。将軍補佐・保科正之が天守不要を主張し、以後建造していない。
- 天守はあったが焼失・倒壊し、その後幕府に遠慮し、または財政難から建造しなかったケース(金沢城、福井城、佐賀城など)。
- 天守を造営するつもりで天守台までは築いたが、幕府に遠慮し、または財政難から全く建てなかったケース(福岡城、赤穂城など)。特に福岡城の場合前者の理由によるものと考えられる。
- 天守台・天守の造営されなかった城郭(米沢城、鹿児島城など)。
[編集] 様式
現段階では、時代の変遷によって望楼型・層塔型・復古型に大別されている。
ただし、発展の順序において層塔型が先か望楼型が先かは結論が出ていない。
[編集] 望楼型
入母屋造の櫓の上に望楼を別構造で載せているので、天守台が不整形であっても、上部の望楼部分は整形とすることができる。城の一つの特徴である破風が必ずできるので、堂々としたデザインとなる。
[編集] 初期望楼型
主に関ヶ原の戦い以前
など
[編集] 後期望楼型
主に関ヶ原の戦い~寛永年間
など
[編集] 層塔型
主に寛永年間以降に見られ、多重塔の如く上から下までデザインに統一感がある。
中でも寛永14年(1637年)に造営された江戸城天守は天守台から80mの偉容を誇った。
など
[編集] 復古型
江戸中期以降。構造自体は層塔型であるが外観が望楼風のデザインのもの。または、消失以前のものを忠実に再建したもの。
[編集] 縄張り
天守の縄張り様式には独立式・複合式・連結式・連立式の4形式がある。
[編集] 独立式
文字通り天守が単独で建っているもの。主に層塔型のものに多い。
など
[編集] 複合式
天守に櫓などを渡り廊下ないし附属したもの。
など
[編集] 連結式
天守と小天守・櫓を渡り廊下・多聞櫓で繋いだもの。
など
[編集] 連立式
天守と小天守群を連結したもの。
- 姫路城
- 伊予松山城
など
[編集] 天守十徳
兵法で述べられている天守の十の利点・目的。
- 城内を見渡せる
- 城外を見晴らせる
- 遠方を見望出来る
- 城内の武士の配置の自由
- 城内に気を配れる
- 守りの際の下知の自由
- 敵の侵攻を見渡せる
- 飛び道具への防御の自由
- 非常の際に戦法を自在に出来る
- 城の象徴
[編集] 現存天守
明治6年(1873年)に廃城令が公布され、多くの城の建造物が失われた。廃城令以後も残った天守は60余あったが、軍の接収によって城の敷地が駐屯地となったので、破却が進んだ。さらに、第二次大戦時には米軍はこれを軍事施設とみなしたので、空襲で更に多くが失われた。
現在、江戸期以前から存在している天守は全国に12か所ある。そのうち4か所が国宝(うち姫路城は世界遺産)であり、残り8か所がいずれも国の重要文化財に指定されている。それぞれ十二現存天守、国宝四城、八重文天守などと通称されている。
[編集] 現存天守の一覧
[編集] 天守の復元
昭和に入り主に地域振興の目的で天守が復元(復元(復原)天守)ないし建設(模擬天守)され始めた。鉄筋コンクリート工法で建設されているものが多いが平成期では文化庁の復元方針の厳格化に伴い掛川城などのように木造による復元が増えている。
[編集] 復元(復原)天守
かつて天守が存在し、その後、火事・天災・破却・戦災(核兵器による物を含む)で消失したものを再建したもの。再建天守ともいう。忠実に原状に復した天守である。この種の天守の最初のものは名古屋城(愛知県名古屋市)で、昭和34年(1957年)に再建された。また、この種の天守は、第二次大戦で消失した天守が主である。復元された天守の中で現在最も新しいものは、平成16年(2004年)に落成した大洲城天守である。
[編集] 復元(復原)天守の一覧
括弧内は所在地と復元年。三層櫓も天守に含んだ。
[編集] 復興天守
かつて天守が存在し、その後、火事・天災・破却・戦災で消失したものを再建したもの。忠実に原状に復した天守ではなく、屋根の破風、最上階の高欄の有無(小田原城・岡崎城など)等々の相違点がある。また、全く違った形で再建された天守もある。この種の天守の最初のものは岐阜城で明治43年に加納城御三階櫓を参考に復興したものであるという。現在のものは戦災により焼失した後建てられたものである。鉄筋鉄骨コンクリート造を用いて造られた復興天守では昭和6年(1931年)大坂城に建設された、大阪城天守閣(大阪府大阪市)が最初である。また第二次大戦後の復興天守は昭和29年(1954年)に建設された岸和田城(大阪府岸和田市)が最初である。
[編集] 復興天守の一覧
括弧内は所在地と復元年。三層櫓も天守に含んだ。
[編集] 模擬天守
かつて天守の存在しなかった、または、天守の存在が疑わしい城跡に天守を建設したもの。もともと天守台のみ存在していた上に天守を築いたものと、天守台も存在しない場所若しくは天守が存在したかもしれない場所以外に築いたものがある。この種の天守の最初のものは洲本城(兵庫県洲本市)で昭和3年(1928年)と復元天守・復興天守も含めても現存のものでは最も古い。
[編集] 模擬天守の一覧
括弧内は所在地と建造年。
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