日露間樺太島仮規則
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日露間樺太島仮規則(にちろかんからふととうかりきそく)とは、慶応3年2月25日(1867年3月30日)にペテルブルグにおいて、日本の江戸幕府とロシア帝国の間で結ばれた条約。仮樺太規約(かりからふときやく)ともいう。
樺太と千島における日露国境画定のためにロシアに派遣された箱館奉行小出秀実と目付石川謙三郎はロシア外務省アジア局長のストレモウホフ(Stremauhov)との間で交渉が行われた。
ロシア側は得撫島と周辺の3島を日本に割譲する代わりに樺太の領有権を認めるように主張し、日本側は北緯50度での樺太の分割を主張した。結局は合意に至らず、改めて従来の日露和親条約に基づいて千島の国境は択捉島と得撫島との間とし、樺太島上では明確な国境を定めず1852年までに日本人(大和民族とアイヌ民族)が居住した樺太の土地は日本領、その他是までの「慣習の通りとするしていたが、この条約により樺太の日露の主権共有を決定したのである。これにより、樺太におけるそれまでの日本人居住地まで雑居地化される結果となった。
当時、ロシアは強大な軍事力を背景に交渉に臨んでおり、日本国内が幕末の混乱期で江戸幕府が弱体化していたことから、不利な条件にも関わらず締結を余儀なくされたいわゆる不平等条約である。