旧皇室典範
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
旧皇室典範(きゅうこうしつてんぱん)とは皇位の継承順位など皇室の制度・構成等について定める日本の法である。
大日本帝国憲法体制下での旧皇室典範は、憲法と同格の国家基本法とされていた。
[編集] 概説
旧皇室典範は制定当初は皇室の家法という性格が与えられていたが、明治40年裁定の皇室典範増補制定で宮内大臣及び国務各大臣の副署がなされ且つ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、明治40年の公式令制定などで宮務法と国務法の峻別が定められたことからもわかるように、皇室典範が憲法の下にあるようになったというわけではない。旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。旧皇室典範の改正又は増補は、法源としての「皇室典範」たる形式で行われた。増補は、明治40年2月11日と大正7年11月28日に二度あるのみで、旧皇室典範本文を改正した例がないまま廃止された。なお、明治40年裁定の皇室典範増補は、昭和21年12月27日に一部改正されている。
[編集] 皇族の範囲規定
1889年(明治22年)2月11日に定められた旧皇室典範は皇子(1世)から皇玄孫(4世)までを親王、5世以下を王とした。これに従えば、親王宣下を受けて親王となっていた伏見宮系の皇族についても王を称することとなるが、特例として旧皇室典範施行までに親王宣下を受けていた場合は従来の通り親王を称することとされた(57条)。さらに永世皇族制を採用し、皇族女子の婚姻による離脱以外は臣籍降下についての定めがなく、皇族の男系子孫は100世代後であっても皇族であり続けるとされた。
しかし、皇族の増加による皇室財政の負担増などを背景に、1907年(明治40年)2月11日に皇室典範増補が定められ、王は勅旨又は本人からの願い出(情願)により、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て、家名を賜って華族になることができるとする臣籍降下制度が創設された。この時は降下に関する基準は定められず、その都度判断されることとされた。また、同時に「皇族ノ臣籍ニ入リタル者ハ皇族ニ復スルコトヲ得ス」(6条)と皇籍復帰の禁止も定められた。
この規定が設けられても王の臣籍降下が進まなかったため、1920年(大正9年)5月19日に皇室典範増補を適用する基準として、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て勅定された(公布されず)。王は皇玄孫の長子孫の系統4世までを皇族とし、それ以外は皇室典範増補第1条に基づく降下の情願をしなければ勅旨により家名を賜い華族に列することとなる。伏見宮系の皇族は全員が崇光天皇の16世孫である邦家親王の子孫であり、この施行準則をそのまま適用した場合、全員が準則における臣籍降下の対象となるため、激変緩和措置として附則を定め、特例として邦家親王を皇玄孫とみなし、施行準則を準用した。
この準則の規定によっても、華族に列する場合は、皇族会議と枢密顧問の諮詢を経て勅定されることになる。その個々の場合においても大体準則の規定に準拠し、かつ事態の緩急に応じてその宜しきを斟酌すべきものとされ、この準則の性質は常例として準拠すべき大体のものであるとされた(枢密院会議筆記1920年3月17日)。
旧皇室典範は永世皇族制を定めており、明治40年の皇室典範増補で例外として臣籍降下の途が開かれた。そして、この「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の制定によって制度上臣籍降下すべき皇族の範囲を大体において具体化したのである。なお、この準則が存在している期間(1920-1946年)に12件の臣籍降下があったが、すべて情願によるものであって、この準則が直接適用されたわけではない。ただ、この準則が存在することを意識して王たちが自ら願い出たものである。
「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」は、王だけでなく内親王と女王も勅旨・情願による臣籍降下を可能とする1946年(昭和21年)12月27日勅定「皇室典範増補中改正ノ件」の制定と同時に、「皇族ノ降下ニ関スル施行準則廃止ノ件」(公布されず)によって廃止された。